元旦の誓いは「勝利」、楽しみは映画 従業員はな子さんの戦時日記展―東京・東大和市

東京, 9月3日, /AJMEDIA/

 かつて国内有数の軍用機エンジンの製造工場があった東京都東大和市の市立郷土博物館で、「日記が語る戦時中のくらし」と題した企画展示が行われている。太平洋戦争で日本の敗色が濃くなる中、軍需工場の従業員だった若い女性が日々の生活と心の内を端正な文字でつづっている。
 女性は大正12(1923)年生まれで新潟県小千谷市出身の戸田はな子さん。昭和17(1942)年に東京の「日立航空機株式会社」に入社し、立川工場の寮に住みながら、事務員として働いた。
 同社立川工場は航空機エンジンの増産に伴い、各地から従業員を募集。学徒勤労動員も含め、最盛期には約1万4000人が働く一大拠点となっていた。
 公開されたのは、表紙に昭和20(1945)年の「作業日記」とタイトルが付された大学ノート2冊。元旦のページは、戦時下の正月とあって「誓ひ」「吾等の力で勝利を」で始まっている。決意の言葉を記す一方で、寮の仲間と雑煮やご飯、お汁粉を作って祝い、夜は寮母さんの部屋で8人でトランプ遊びをしたとも書いている。
 買い物に出ても「ほとんど用は足りない」ほど物資は少なく、みかんやせっけんなども配給に。4月13日は寮で急に備品回収があり、「各室を寮監が点検。私達の部屋からは湯タンポを取上げられる」。職場の人の出征や課長の召集令など心の重い出来事とともに、同僚とのおしゃべりや社宅の人々との交流、寮の近くにあった映画館へよく通ったことなども記されており、つかの間の平穏を大事にしたことがうかがえる。
 立川工場は2月17日に米軍艦載機の機銃掃射と爆撃を受けたのをはじめ、4月24日の爆撃機B29の来襲まで計3回の激しい攻撃でほぼ壊滅。合わせて100人を超える人が亡くなった。
 4月19日は「警報発令すぐ敵機来襲」。はな子さんは退避する「途中で土に伏せる。二、三十秒間位がもう死ぬと思ったが生きていた」と記述。
 同月24日は午前8時に退避命令が下り、「B29 百二十機の主力が我工場を四千位の高度で爆撃」「ついにやられる」「物すごいしんどう三十分続く」「会社からもうもうたる黒と白の煙り」「どうする事もできず」などと目の前の光景を生々しく描写した。
 尊い命が失われ、工場も鉄骨を残して焼け落ちたが、5月5日には「端午の節句 工場内給水塔上に鯉のぼりが立つ」と書いた。
 日記は終戦を経て故郷に帰る日のことを書いた8月29日で終わっている。
 はな子さんは平成25(2013)年に90歳で亡くなった。旧日立航空機株式会社の工場敷地内にあった変電所は無数の弾痕をとどめながら戦後も残り、市の文化財に指定された。昨年7月に保存工事が完了し、一般公開で見学に訪れた遺族が「母が残した日記がある」と職員に伝えた。
 郷土博物館の梶原喜世子さんは「こんな時代でも人間らしく生きようとし、人間らしい暮らしができていた場面もあったことが伝われば」と話している。
 会期は9月4日まで。会場には機銃掃射の跡が残る社宅の天井板なども展示されている。
※日記の文面は原文の表記に沿いました。

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