ファッションデザイナーの三宅一生さん死去 84歳

東京, 8月10日, /AJMEDIA/

デザイン性と機能性をあわせ持った革新的な衣服を次々に世に送り出し、国際的に高い評価を受けた、ファッションデザイナーの三宅一生さんが、今月5日、亡くなりました。84歳でした。

三宅さんは1938年に広島県で生まれ、多摩美術大学を卒業後、ヨーロッパやアメリカでファッションデザイナーとして修行を積み、1970年に東京にデザイン事務所を開きました。

その後パリやニューヨークで作品を発表し、日本の伝統美と新素材との融合を図った斬新なデザインで世界的に注目を集めました。
生地を立体的に縫い合わせるのではなく、折り畳んだりくりぬいたりすることで身にまとう「一枚の布」というコンセプトでデザインされた衣服は、ファッションをアートに高めたと評され、小さく収納できるのが特徴の「PLEATS PLEASE」や、コンピューターで設計された生地から衣服を切り出す「AーPOC」などのシリーズはデザイン性と機能性を追求した作品として世界的に人気となりました。

また、みずからのデザイン事務所で次の世代のデザイナーを育成してきたほか、ペットボトルを再生した素材の活用や、デザイン文化の研究を行う財団を創設するなど活躍を続けてきました。
そして、2010年に文化勲章を受章したほか、2016年には、日本とフランスの文化交流に大きな役割を果たしたとして、フランスのレジオン・ドヌール勲章コマンドールが贈られています。

事務所によりますと、三宅さんは、今月5日、都内の病院でがんのため亡くなりました。
コシノジュンコさん「永遠に名前が残る人」
ファッションデザイナーのコシノジュンコさんは、三宅一生さんについて「学生時代からの友人で、同じスタートラインに立って、お互いにパリを目指して賞を争ってきた。新型コロナの影響で、ここ3年は会えていなかったが『ジュンちゃん何かやろうよ』と若い頃の感覚でよく話しかけてくれた」と振り返りました。

そして「クールで淡々と自分の世界を貫く人で、特に『プリーツ』など世界に挑戦して1つの形を残し、ファッション界で永遠に名前が残る人だと思う。私がこれまで頑張ってこれたのは、若い頃から一生さんをライバルとして強く意識し、切磋琢磨(せっさたくま)してこれた部分が大きく、今回、知らせを聞き、とてもさみしいです」と話していました。
美術評論家「“群を抜いた存在”」
美術評論家で東京藝術大学特任教授の伊東順二さんは、三宅一生さんについて「100年後でも200年後でも着たくなる衣装をつくる“群を抜いた存在”と言えると思います。一生さんは知識を吸収することが好きで、古今東西のあらゆる文化に精通していました。シンプルでありながら多様な美に満ちあふれた作品が多く、常に斬新で革新的な表現を求めていたと思います」と述べました。

そして「自分の事務所から国際的に活躍する多くのデザイナーを出すなど、若手の育成にも尽力されていました。『面白いやつがいるんだよ』と言いながらいろいろなデザイナーを紹介してくれたことが印象的です。そういった姿勢は世界中のデザイナーやアーティストに大きな影響を与えたと思います」と話していました。
海外メディアも速報で伝える
三宅一生さんが亡くなったことを、海外メディアも速報で伝えています。

このうち、イギリスの公共放送BBCは、三宅さんについて、アップルの創業者で2011年に死去したスティーブ・ジョブズ氏が愛用した、黒のタートルネックをデザインしたことで知られるとしたうえで「革新的なデザイナーであり、世界的なファッションブランドを築いた」とたたえています。

また、フランスのAFP通信は「1970年代以降、パリで名をあげた日本人デザイナーの1人だった」と伝え、三宅さんの死を悼んでいます。
パリでも惜しむ声
パリの中心部にある三宅一生さんのブランドの店舗を訪れた買い物客は、訃報に驚いていました。

友人への贈り物としてブランドの商品を購入したアメリカ人の男性は「訃報を聞いてとてもショックです。どの洋服も印象的で、アート作品のようです」と話していました。

またフランス人の女性は「彼の作品は詩的で、ときに陽気でもあり、大好きでした。偉大なデザイナーがこの世を去って悲しいですが、美しい作品は残りましたね」と話していました。
三宅さん 被爆体験と平和への思い
広島市出身の三宅一生さんは、2009年7月、アメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」にみずからの被爆体験を明らかにする文章を寄稿しています。

70代となっていた三宅さんは、寄稿した文章の中で「『原爆を生き延びたデザイナー』というレッテルを張られたくない」としてそれまで被爆体験を語ってこなかった思いをつづる一方、この年の4月にオバマ大統領が『核兵器のない世界』を訴えたのを機に「生き残った者として被爆体験を語る個人的、倫理的な責任を感じるようになった」と強い決意をにじませ、大統領の広島訪問を呼びかけました。

また、三宅さんは7歳で被爆した当時の様子について「今でも目を閉じると、真っ赤なせん光に続いて黒い雲が立ち上り、人々が逃げ惑う情景が浮かぶ。誰もが決して体験すべきではないものだ」と振り返ったほか、母親が被爆の影響で亡くなったことも明らかにしていました。

オバマ大統領は、2016年5月、現職の大統領として初めて広島を訪問し、被爆者たちを前に「われわれは核兵器のない世界を追い求めなければならない」とスピーチしました。

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