声優・山寺宏一さん ふるさと宮城で語った「声」の役割とは

東京, 1月9日, /AJMEDIA/

「七色の声を持つ」と称される声優・山寺宏一さん。アニメ「それいけ!アンパンマン」のジャムおじさんやめいけんチーズ、洋画の吹き替えではエディー・マーフィーやジム・キャリーを担当。さらには、俳優として大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演し、慈円を演じるなど、その声を生かして幅広く活躍しています。
東日本大震災でふるさと宮城が被災したときは、無力感を感じながらもみずからができることを模索したと言います。そんな山寺さんが、いま考える「声」の役割とは。

(聞き手:仙台放送局 千葉美乃梨アナウンサー、取材:仙台放送局 手嶌真吾アナウンサー)

原点は、仙台の大学で落語に打ち込んだ日々
声優として活躍する山寺さんの原点が、宮城の実家から通っていた仙台市の東北学院大学にあります。山寺さんが所属していた「落語研究会」の部室です。山寺さんは、仙台の街中にあるキャンパスのこの場所で多くの時間を過ごしたと言います。今回、およそ40年ぶりに部室を訪ねた山寺さんは、中に入ると思わず涙ぐみました。
壁には歴代の部員の芸名(高座名)が書かれた木札がずらりと並んでいます。そこに、山寺さんの芸名「波慣家文好(はなれや・ぶんこう)」の札もありました。

(山寺)
名前の由来は「学校の分校は、ちょっと離れたとこにある」っていう…。どうしてそんな名前をつけられたのか(笑)
先輩が必ずつけて。「何々亭何々」という風に、いろいろもじってね。僕の代は15人。たぶん、今までの落研の五十数年の歴史の中でもいちばん部員が多かったのでは。大所帯だったんですね。先にいいのが決まってね。「替り家志ん喬(かわりや・しんきょう)」なんて、本当にプロの落語家さんにいるような名前ですけど、こんなにいい名前の後で「ええ、文好!?」って。先輩に「じゃあ自分で考えろ」みたいに言われて。僕はその時、筒井康隆さんが大好きだったので、では「ツツイヤ・スタカ」でどうかって。「スタカか…、呼びにくい。文好で」と決まったように記憶しています。

(千葉)
そもそも山寺さんは、小さいころからものまねをしてみんなを笑わせるのが好きだったそうですね。
(山寺)
小学校や家の中とか、いろいろやっていたんですけれども。学校でやっていたのは小学3年生ぐらいだったのかな。お誕生日会とか、お楽しみ会みたいなものがあって、出しものとかいろいろやったらしくて。転校していった子が、「山寺くんはいろんな声出せるところがいい、楽しい」とか「好き」みたいなことを、一人一人の思い出みたいなことで書いてくれた。うすうすと感じていたけど、そうなんだ!って。いろんな声を出せることが楽しいと思ってくれる人がいることを自覚して。それで調子に乗ったんでしょうね。
(千葉)
子どもながらに自分の声って他の人とちょっと違うなとか、強みなのかなっていうのを、それぐらいのときにはすでに感じていたんですか?
(山寺)
思ったみたいですね。自分の声が、っていうよりも、いろんな声が出せるっていうこと…
(千葉)
幅というか。
(山寺)
だと思うんです。
犬、猫、鶏とかはだいぶ小さいころからやったり。それこそアニメのキャラクターの使い分けみたいなこともやっていたので。とにかく小さいころから「声の表情」といいますか、そういうものに非常に興味があって、今にいたるっていう。

(千葉)
そんなものまね好きな少年が大学生になって、落語では通用したんでしょうか?
(山寺)
落語ではいろんな人物が出てきて、それを全部ひとりでやるわけですから、ものまねが得意というか好きな自分にはぴったりだと思って。いちばん最初にやったのは三遊亭圓生。まさにすごい名人。その音源を聞いて、最初に「転失気(てんしき)」という落語をやったんですけど。「えー、毎度この昔から」みたいな感じで始まるんです、まくらが。「こう申しまして、ケチな方ってのはいらっしゃるもんで。えー、われわれの方では」なんていうね。それを18歳の僕が「(圓生のまねで)毎度、われわれは」とやったら、先輩が「そこはいいんだよ」「そこは素なんだから」と。先輩に「お前、ものまね得意だって言うけど、落語はものまねじゃないんだ」「気持ち悪い」と言われて。ご隠居が出てきたり、八っつあんが出てきたり、若い人も出てくるし、変えたほうがおもしろいと思ったんですけど、「いや違う」「あまり不自然に変えると違和感があるから。そうじゃない」と言われて。
「そうだったんだ…」と。
(千葉)
ちょっと衝撃ですよね。
(山寺)
そうなんですよ!
それが得意なのに、「そこまでやらずに、人物描写っていうのは、話し方だったりスピードだったり、そういうので変えていくんだ」と言われて。
(千葉)
先輩からの指摘があって、上達するために、具体的にどんな練習を重ねたんでしょう?
(山寺)
とにかくプロの音源を聴きまくるという。映像はほとんどなかったんですよね。何でも模倣から入ったので、プロの方、先輩方のいいと思うところをどんどん取り込んで。それがスキルにおのずとなっていったんでしょうね。とにかく練習しましたね、繰り返し繰り返し。
それは今も全く一緒ですね。自分の中で落とし込んでいって、自分が納得できるまでやるっていう。頭で考えながらやっているうちはダメみたいなところが。その中で、先輩にも勧められた噺家(はなしか)さんが、古今亭志ん朝師匠。聴いたときに衝撃が走って。「これだ!」と思って。
(千葉)
どんなところでしょう。
(山寺)
そのキレのよさ、スピード、それから人物描写、すべてが「うわーっ」となって。特にすごくテンポがよくて。「お前なんとか」「いやそれは」っていう風に、すごいんですよ、瞬時の切り替えが。自分で自分のセリフを切って次にいくっていう。ふだんのお芝居でもあるわけですよね。相手が言い終わる前に言う。そこでどんどん切り替え。
だから今、例えば「アンパンマン」でも、(自分が声優を担当している)ジャムおじさんとめいけんチーズとカバ夫が一緒に出てくると、かぶっているところ以外は続けてやりたくなっちゃうんですよね。
(千葉)
たしかに1つのシーンで、山寺さんだけで進行してるんじゃないかというシーンもありますもんね。
(山寺)
そうですね、たまにありますから。別に分けて録ってもいいんですけれどもね。効率的ですしね。でも、そういう切り替えが逆にやっていて楽しいというか。一緒にできるというのは「上っ面でやっているだけなんじゃないか」みたいに言われるんですけど、落語だとそれが当たり前なんで。それと「なりきる」ということとか。
すべて演技において、落語をやっていたことが本当に、落語好きだったことが、すべてにおいて。うん。
当時仲間と切磋琢磨(せっさたくま)した場所が、部室のあった建物の屋上です。

(千葉)
ここではどんなことをしていたんですか?
(山寺)
ここはとにかく発声練習です。「えー、ただいま屋上におきまして、発声練習、発声練習中でございます!」みたいな感じかな。誰かが言うんですよ、大きくね。広瀬川まで聞こえるように。「あ・え・い・う・え・お・あ・お」とか、「か・け・き・く・け・こ・か・こ」と、50音を全部やっていく、全員で。それをお昼に必ずやっていて。その3年間がいちばん発声練習をしましたね。
(千葉)
この3年間で、安定した声量は鍛えられた感じがしますか?
(山寺)
だと思います。とにかく同級生がいっぱいいたんで、負けたくないと思って。ものすごく声出るやつがいたんですよ、同級生で。そいつの声がえげつなかったんで。「えー!」って声がびゅーっと伸びて。ふだんしゃべってる声はそうでもないんですけど。負けまいと。ほかの同級生もいっぱいいますし、負けないようにしようって思いましたね。で、腹から出せ、腹から出せってやっていましたね。
当時の山寺さんを知る方にもお話をうかがいました。東北学院大学落語研究会OB会会長の小野寺義輝さん(高座名:笑門亭来福)です。小野寺さんは山寺さんの2学年後輩で、山寺さんが憧れの存在だったと言います。

(千葉)
当時の山寺さんて、どんな先輩でした?
(小野寺)
かっこよかったですよ~。まぁ、かっこよかったです。
(山寺)
いいから。テレビ向けは。
(千葉)
どんなところが?
(小野寺)
まず、何をやっても華があるんですよ。とにかくひと言ひと言にすばらしいものがあって。で、努力家でいらっしゃいましたし、みんな山寺さんを目標に頑張っていたんですよ。頑張れば山寺さんみたいになれるんじゃないかと錯覚しまして。全然なれないんですけどね。
(山寺)
そうなの?
だそうです(笑)
まあね、多少「盛って」くれていますけど。
(千葉)
山寺さんが今あるのは、小野寺さんがある仕事をしたからだと聞いたんですけど。
(山寺)
え、そうなの?
(小野寺)
(山寺さんに)頼まれて、俳優養成学校の願書を私がポストに入れただけです。いやあ、大変な仕事でした。
(山寺)
なんで自分で入れねえんだ、俺(笑)
俺ってこういう道に進むんだぞということを、後輩に示したかったのかもしれないですね。就職活動をみんなしていたんですけれど、途中で挫折して、というか、本当にやりたいのはなんだろうと思って。ここの生協でいろんな本を買って。
でも、ということは、俺が後に行くことになる養成所の願書を、来福が出してくれたの?
(小野寺)
はい。
(山寺)
…全然覚えてない!(笑)
(千葉)
山寺さんがそういう道に進んだというのは、後輩から見てどうでしたか?
(小野寺)
憧れでしたね。役をもらって「今度これに出るんだよ」と知ると、みんなでチェックをして。部室の日誌があったんですけど、「きょうは何時からどの番組に、山寺さんがこの役で出るから」とみんなで書きまして。
(山寺)
ネットとかメールがない時代に?そうなの?うれしいー!
送り出すとき、みんな、上京するときにドラマみたいにね、仙台駅に送りに来てくれて。「頑張ってくださーい!」って。色紙とか寄せ書きを書いてくれて。「声優として頑張ってください」とかいろいろ書いてくれて、送り出してくれたんですよ。後輩に送り出されたって感じです。
でもチェックしてくれてたんだ!
いちばん生に近いものが「声」
大学卒業後、東京の養成所に通い、デビューした山寺さん。
すぐに、声優として頭角を現します。子ども 向け番組や洋画の吹き替えなどで活躍。その多彩な声は、子どもから大人まで魅了します。

(千葉)
吹き替えもアニメもだと思うんですけれど。最終的に「声」で色がつくわけじゃないですか、作品として。その役割の大きさというのはどのように考えていますか。
(山寺)
もちろん、1つの作品の中にもいろんな要素があって。でも、声の要素は大きいですもんね。
よく「命を吹き込む」ってありますけれども。でも絵を作る方々だってね、いかにそのキャラクターを魅力的に見せるか、動き、所作、表情、1個1個細かく細かく考えて作るわけですから。一緒だと思うんですよね。一緒に演技をしていると思うんですよ。そうやって作られた絵に、そこにぴったりはまる声がなければ、すべてが台なしになってしまいますし。吹き替えだって、すばらしい作品として出来上がっている。その声を入れ替える。音楽や音響効果なんかもそのままですから。入れかわるのは声だけ。そこの部分がちょっと違っただけで、その作品が台なしになってしまうという意味では、非常に大きな仕事だと思いますね。
(千葉)
違和感というのがあっちゃいけないってことですよね。
(山寺)
そうですね、最低限違和感があってはいけない。プラス魅力的な声の表現じゃなきゃいけないっていうのはあると思うので。これは大変な仕事だなと思いますけども、楽しいことでもありますね。姿を見せるのと違って、全く自分とかけ離れたものになれる可能性があるのが声の仕事ですから。1日のうちで、「カビ」をやった後に、「ハリウッド級の二枚目スター」をやれるんですから。その数時間後とかね。おもしろいですよね。飽きるわけがないですよね。

(千葉)
声が「命を吹き込む作業」だというのは、山寺さんはどのように解釈をされているんですか?
(山寺)
うーん……
より「生」っぽいもの。映像だってね、アニメだったら手で描くわけですけれども、音楽だって人間が弾いたものですから、それは生ですけども…、より肉体から発せられるそのもの、もちろんマイクとかいろんな機械を通しますけれども、いちばん生っぽいものだと思うんですよね。1つの作品の中で。いちばんアナログなものだと思うんですよ、声が。
いま、AIである程度できるって話がありますけれども、いちばん生に近いものが声だと思うんです。例えばアニメーションにしてみると。いろいろ細工をするでしょうけれども、なかなかごまかしがきかない。もちろん芝居とか映像で出るときはそれ以外のこともやらなければいけないし、選ばれてその役をやるからにはやらなきゃいけないですけれども、そこはいまだに自信ないですけれども。その1つの要素の声だけでは、負けないで表現しなきゃいけないと。それで何とか人に楽しんでいただければと。
その時の自分の武器になるのは、声しかないってずっと思って。
子どもが喜んでくれたキャラクターの「声」
今回の取材では、ふるさとの宮城県塩釜市も訪ねました。東日本大震災で津波が押し寄せた地域です。そこで、12年前の2011年3月11日、山寺さんは何をしていたのか質問をすると、当時の心情などを話し始めました。

(千葉)
地震発生当時は、山寺さんは東京にいた?
(山寺)
そうですね、東京のスタジオで収録をして。そこが大きく揺れて。あまりにも大きな揺れなんで、「退避してください」と言われて。最初機材をスタッフと一緒におさえていたんです。でも「今すぐ」ってことで、非常階段から外出たらもう、四谷の辺りだったんですけどね、大きくもう、全部揺れて。これはここが震源だろうと思って。テレビとかいろんなもので聞いたら、宮城県の沖が震源だと。これは大変なことになったと。われわれはずっとテレビ見ることができたんでくぎづけで。うーん。津波のこととかもね、知りまして。がくぜんとしましたね。ことばを失いましたし。続々と入ってくるニュースを見聞きして。呆然と、といった感じでしたね。
実家の家族にメールしたんですけども、「けがなし」というその1文だけがすぐに帰ってきて、その後すぐ音信不通になって。その後ずっと連絡がつかなかった。そのほか親戚とか友人も、宮城県のいたるところにいて、海の近くにもいるので。うん。とにかくもう、安否情報を、ずーっと、ニュースを見ながら、という日々でしたね。

山寺さんが宮城に入ったのは、発生から2週間がたったころだったと言います。

(山寺)
ニュース映像で見るのと、目の当たりにするのでは、こんなに違うのものかと。2週間ですから、まだいろんなものが。地元の方にいろいろと案内してもらえる範囲で。行けないところもいっぱいありましたけど。うん……。何もことばが出てこなかったですね。
(千葉)
かけることばも見つからなかったですか。
(山寺)
うん……。
でも、その小さな避難所で自主的に集まっている方々のところに物資を持って行ったわけですけど、ちょっとお話を聞く時間をいただいて。皆さんすごく、大変なのに明るくふるまってらして。「コーヒー飲んでがいん?」って言われて。「いやいや、そんなわけにはいかないです。僕らが何かの助けになればと思っていろいろ持ってきたんですから、そんな」って言ったら、「いいがら飲んでけ~」って。僕のことなんて、みんな知らないだろうなと思ったんですけど、「ああ、そう!」って言ってくれて。
本当にあたたかく迎えていただいたんですけど、「それじゃあ、お話伺っていいですか?」と言って。本当にみなさん、ギリギリの線で今ここにいるということを伺って。いろんな話を聞いて。被害にあった場所も。
うーん、自分はどうしたらいいんだろうと思いましたね…。
そんな中でも、お子さんもたくさん避難所にいらしたんで。どう声かけていいか分かんないけど、自分が誰かを知ってもらおうと思って。ちょっとね、アニメのキャラクターの声とか、そんなのをやって何になると思いながらも、ちょっとお子さんが喜んでくれたように見えたので…。そういうことかなって。
まず見て、会いに行く。それで、どんな状況か知る。で、ちょっと、お子さんとかいたら、喜んでもらえたらいいなっていうことで。そういうことをしていこうかと思った日でしたね。
そして、帰りに塩釜もちょっと行きたい、できれば実家も行きたい、親とも連絡取れてなかったので。海の一番近くにいる友人が心配で、行ったら元気で「何とか大丈夫だったよ」って。いろいろ当時の話を聞いたりして、帰りにちょっとだけ実家に寄って、「何とか大丈夫だよ」という両親の顔を見て、そのまま帰るっていう感じでしたけどね。
それから、大体、週末には来られる範囲で来て、いろんな場所をね、いろいろな物資を扱って購入したりしてきて、いろいろ回るということをし始めた感じですね。
でも本当に、「自分が来て何になる?」って思ったんですけどね。
(千葉)
それはどうしてですか?
(山寺)
うーん……。
自分が来て、そんな気を使わせてもね、大変だし。もっとなんか、有名な人だったら喜んでもらえるんじゃないかとか、いろんなことを思いながら。でも、それよりも、いろんなところを回ってがれきの処理とかそういうことをしたほうがいいんじゃないかと、いろいろ迷いながらも、でも、そうこうしているうちに、友達がたくさんいるんで、「お前来れないのか」とか「来てくれよ」とか、そういう声がかかるようになってきたので。あとはもう「おう、行くよ」「行く行く」という感じになってきましたね。

(山寺)
たぶん、避難所にいた子どもたちとかもぎりぎりの状況で。命は助かったものの、大変な状況が続いてて。なかなかね、ほっとしたり楽しんだりすることもできない状況だったと思うので。まあ、おかげさまで、小さいお子さんに喜んでもらえる作品をたくさんやっていたので。それを目の前でやることで「えー!こんなおじさんがやってたの?」って言われて、がっかりなんてことになるかもしれないけど、たぶん知ってくれてるだろうってキャラクターだったんで。それをやるとやっぱり「えー!」ってなるんで。その子どもの顔を見て親がちょっと喜ぶ、親御さんがね、喜んでる顔が見られたんですよ。だから、そういうのやってよかったなって、すごく感じましたね。それで喜んでもらえるんだと思うと。
役はね、やっぱりみんな知ってるのは「アンパンマン」かなと思ったんで、チーズとカバ夫をやったりとか。あとはディズニー作品のキャラクターをいくつもやらせていただいてるんで、それをいくつかやると、「あー!」なんてなって。ディズニー作品だと大人の方も分かってくれるので。本当は、あまり人前でやるなという風に言われているんですけど、まあ、ここではいいかと思って、やりましたね。それと、ものまね番組にも出てるんで、ネタみたいなこともやるという。
それから、東京で子ども番組をやってたんで、そこに関わっている会社の方々が、文房具のメーカーだったり、おもちゃのメーカーだったりの方々が自分たちでも支援してるけれども、「僕が宮城出身でときどき行ってる」と言うと、「じゃあぜひ協力したい」と言ってくださって。そういうものを集めて運んだりもしていたんです。そういうものを配る。皆さんに「こんな者です。山ちゃんです。みんな見たことないかもしれないけど、こんな声やってるんだよ~!」なんて言う。「じゃ、ここにいろいろ文房具とかおもちゃあるから、みんなに配るね。もらって~!」なんて、そのぐらいしかできないなと。まずはお子さんにということでやっていたんですけど。
だからそんなことで、自分なんか何にも役に立たないと思ったけど、なんかそんなことで、自分を満足させたっていうのがあると思います。果たして、ふるさとどうなってしまうんだろうと……。うん。あれだけの被害からどうやって人々は立ち上がって、東北の人々は笑顔になれる日が来るんだろうかというくらいまで、ちょっと想像してしまって。それに対して、僕なんかもう何が、っていう思いと、一生僕はこれからふるさとのために、これから頑張んなきゃだめだなって、これから自分の楽しいこととかなんて、何ももう、そんなことしてる場合じゃないんじゃないかとか、そこまで感じてしまって。大したことできないくせに。そこまで思ってしまったんですよね。
だからこそ、でも何ができるんだって思うと、ぐちゃぐちゃになっちゃって。でも来てみたら、いや、そんなこといろいろ思うよりも、間違っているかもしれないし大きいことはできないけど、なりふり構わず、求められたら行こう。

(千葉)
私も実は、宮城出身で、震災当時は東京にいて大学3年生だったんです。その時、特に直後、何者でもなくて、何もできないもどかしさにずっとさいなまれてたんですけど。山寺さんは、これまでのキャリアとかやってきたことが、この震災が起きたことで、これまでやってきたことがどういう風に役に立てるのか、ということはどうお考えになりましたか。エンターテインメントで人を喜ばせてきた、今までやってきたことが、この出来事に対して、通用するのかとか、本当に求められているのかとか。
(山寺)
それはエンターテインメントに関わる人はみんな悩んだところだと思うんですね。行って何かをやって、芸人さんなんてね、「まだ笑ってる場合じゃないだろ」と。歌、音楽を聴くどころじゃないって言いながらも、それを求めて来てくださる、それでちょっとでも心が癒える瞬間があるのであれば、やれることをやろうっていう考えだったと思うんですけども、みんな。僕もそうですね。
でも声優ってのは、なかなかその中で、何をやったらいいんだろうと。それでも、気を使ってくださってるのかもしれないですけど、「あ~見れてよかった」「会えてよかった」という人がちょっとでもいるのであれば、ね。「そんなことしたところで」という声とか、自分の中の思いよりも、まず行動かなと思って。「自分が来たら喜んでもらえるなんて、お前思ってるんじゃねえだろうな」って言われたらどうしようとか、そんなことも感じたんですけど。でも、一緒に動いてくれる仲間もいたので。地元の友達とかが「いやいや、大丈夫だ大丈夫だ」とかね。七ヶ浜に行った時も不安で。「大変な状況の中、すいません、すいません」と行ったら、「あれれれ!山寺さんのね~!」なんて言って。「あんたのお母さんと友達だよ~」とか。「頑張ってんだね~、声優で!」なんて言われたりして。
(千葉)
ホッとさせに行ったはずなのに、ホッとさせてもらったっていう。
(山寺)
そうなんですよ。そういう経験もいっぱいありますね。それじゃいけないなと思いながらも。
やはり地元だからと、みんな、そういう意味で温かく、あんまりテレビで顔は見たことないけど、なんとなく声聞いたことあるよみたいな感じで言ってくださったのかな。やっぱり地元だっていうことで、そういう風に言ってくれたんですかね。
でも、やっぱり、悩みながらでした。
「話すということの表現力は、無限大」
それから同郷の歌手たちと一緒に、被災地の子どもたちのための基金を立ち上げるなど、復興支援の取り組みを積み重ねてきた山寺さん。
これからもふるさとを応援するためにも、「声の力」をいかしていきたいと考えています。

(山寺)
こうやって来たときに少しでも喜んでもらうのは、僕がこの仕事をしていたからっていう部分でしかやれてないので。そうすると、俺、仕事いちばん頑張るのがいいし、もっと仕事で頑張って、喜んでもらえたほうが発信力も強くなるだろうと。であれば、仕事もっと頑張るしかない。
自分にしかできない、「山ちゃんでよかったね」「山ちゃんにしかできなかったな」と言われる作品を、1個でも多く、死ぬまでに、多くやりたいなって思っていますね。
そうすることで、地元の皆さんにも喜んでいただけたら。

(千葉)
人の声だからこそ、届けられることってあるのかなと感じましたけれども。
(山寺)
ねえ、そう思っていただけたなら、これほどうれしいことはないですけども…。
まあ、主にはね、キャラクターや作品のおかげですよ。よい作品、キャラクターに、今まで本当に出会わせていただいて。そのおかげが大きいですね。その役をやるまでには…、まずそのキャラクターを自分のものにするまでには、いろいろ大変だったかもしれませんけども。本当に楽しいと思ってずっとやってきた仕事が、たまたまそういうことで。
でもそうですね、考えてみると、たまに顔を出させていただきますけど、主な仕事は声優ですからね。声優でも人の役に立てることがあるってことに、気づけたってことも大きいですね、自分の中では。やっててよかったなって。子どもに喜んでもらえたときは特に思いますね。

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