ゲリラ「あまりに素人だった」 元人質の佐藤繁徳氏―ペルー公邸占拠事件

東京, 4月23日, /AJMEDIA

南米ペルーの首都リマで1996年12月に発生した左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」による日本大使公邸占拠事件は、現地時間の22日、終結から25年を迎えた。事件では、最後まで残った人質72人のうち日本人24人全員を含む71人が救出された。元人質でリマ在住の佐藤繁徳氏(73)は、ゲリラたちがあまりに「素人」だったことと、人質が「大人」だったことが生還のカギだったと考えている。
 佐藤氏はまだ左翼ゲリラのテロが活発だった93年、日商岩井(現・双日)のリマ駐在員事務所長に就任した。天皇誕生日の祝宴のさなかに公邸を占拠した武装グループが、91年に日本人農業技術者3人を殺害したゲリラ「センデロ・ルミノソ(輝く道)」でなく、義賊を自任するMRTAと分かった時は「これは殺されないな」と思ったという。
 公邸を占拠した14人のMRTAメンバーは、4人ほどの幹部を除けば「高報酬」で貧しいアンデス山中などから駆り集められた「アルバイト感覚の若者」(佐藤氏)。教育水準は低く、左翼思想も理解していなかった。一方、最後まで残った72人の人質は、政府要人や大企業社長など人生経験や知識が豊富で社会的地位も高い、若いゲリラにしてみれば「雲の上の人」だった。
 人質生活が100日を数えた頃から「ああ、自分は生きて出られないな」と覚悟を決めたという佐藤氏をはじめ、日本の民間人は積極的にゲリラたちと意思疎通を図った。後に「日本人はゲリラに迎合していた」とやゆされたが、佐藤氏は「われわれは若いゲリラをどう扱えばいいか分かっていたし、擦り寄ることはなかった。相手のことを探るのに必死だった」と反論。「怒らせないよう気を使ったが、怖がらなかったし、逆に恐れられもしなかった」と振り返る。
 佐藤氏がいぶかるのは、MRTAがテロリストの定石を踏まなかったことだ。公邸地下へのトンネル掘削が発覚した際も、交渉が行き詰まった時も、見せしめの処刑は行われなかった。自身は目撃していないものの、他の人質によると、軍突入のさなかにゲリラの女性メンバーが日本人人質の部屋に駆け付けて銃口を向けたが、何もせず去った。
 「人質も軍もプロだったが、唯一プロじゃなかったのはゲリラ側だった」と佐藤氏は述懐する。占拠したゲリラ全員が殺害されたことについては「報いを受けるのは仕方ない」としながらも、「憎いとは思わない」と語った。
 佐藤氏は事件の1年後に退職し、水産会社社長として再びペルーへ。以来24年「なぜここに居るのか、自分でも分からない。ただ、本当に面白い国なんだよね」。4年ほど前に1度、公邸跡地に行った際は特に感慨はなかったが、突入部隊が訓練に使った公邸レプリカだけは、足がすくんで行けないという。
 ペルーは新型コロナウイルスによる致死率が世界で最も高い国の一つ。佐藤氏は「公邸で死ぬと思っていた僕が、新型コロナにも負けず生きているのは不思議だなあ」とつぶやいた。

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