泡盛、苦心の末の県民酒 「てーげー」を改良、特産品に―沖縄復帰50年

東京, 4月5日, /AJMEDIA/

 沖縄を代表する酒の泡盛。本土復帰に伴い、日本酒や洋酒との競争激化で存続が危ぶまれた時期もあったが、県内の蔵元が懸命に製造方法を改善し、飲みやすさを追求した結果、特産品の一つに成長した。復帰後の苦労を関係者に聞いた。
 「本土に復帰すれば、泡盛は生き残れないと言われていた」。瑞泉酒造(那覇市)の蔵元、佐久本武さん(78)は半世紀前の厳しい状況を振り返る。当時の繁華街では外国産のウイスキーが全盛。1970年から那覇市で沖縄料理店「ゆうなんぎい」を営む辻野卓さん(74)は「昔の泡盛はにおいだけが強くて、客からは『泡盛は家で飲む酒。外でお金を出して飲むものじゃない』と言われる時代だった」と話す。
 この状況に沖縄国税事務所が危機感を抱いた。おいしい泡盛を造って酒税収入を増やそうと、本土に復帰した72年に初めて「鑑定官」を置き、蔵元への指導を始めた。佐久本さんは「鑑定官に計算式から教わった。てーげー(だいたい)でやっていた酒蔵の人間には新鮮だった」と思い起こす。
 酒蔵内の衛生管理を徹底し、清潔さを追求することで、独特な酸のにおいが改善。ろ過技術も向上し、飲みやすい酒ができるようになった。それでも泡盛のイメージはすぐには変わらず、佐久本さんは国税の担当者とホテルの宴会場を回って営業活動を重ね、地道に顧客を増やしていった。
 イメージが一変したのは78年。四角い緑のしゃれたボトルの泡盛が発売されると、飲食店での取り扱いが増え始めた。発売した久米仙酒造(那覇市)の平良正諭輝さん(68)は「ハイカラな瓶を探していたところ、瓶メーカーが『余っている瓶がある』と言うので試しに使ったら、生産が追い付かなくなるほど大当たりした」と笑う。
 2001年に放送されたドラマ「ちゅらさん」をきっかけにした沖縄ブームに乗り、順調に泡盛の生産量を伸ばしてきたが、近年は人気が低下。県民の泡盛離れも進み、20年の出荷量は1万3781キロリットルと、04年のピークからほぼ半減した。
 それでも、佐久本さんは「泡盛は何度も逆境を乗り越えてきた」と自信を見せる。「泡盛マイスター」の資格を持つ辻野さんも「今の泡盛はとろみやこく、香り、まろやかさの4拍子がそろって、昔より格段においしい。まず飲んでみてほしい」と50年間の進化をアピールする。

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