届かなかった「復帰メダル」 基地問題背景に配布低調―沖縄復帰50年

東京, 4月19日, /AJMEDIA

 沖縄の本土復帰を記念し作成されたが、配布は低調に終わった記念品がある。日の丸と首里城の守礼門が描かれた「復帰メダル」だ。祖国復帰を祝うメダルはなぜ子どもたちに届かなかったのか。背景には、複雑な県民感情が反映されていた。
 政府は1972年4月、「祖国復帰おめでとう」と描かれた約20万枚の銅製メダルを作成。当時の琉球政府を通じ、沖縄県内の小中学生に配る予定だったが、多くが未配布となった。
 県教育庁によると、2014年3月時点で約2000枚のメダルが教育研修施設などに保管されていた。レクリエーションの参加賞として配布されてきたという。
 記者が訪ねた糸満市内の施設には80枚が残されていた。40枚単位で一つのシートに密封され、50年間開封された形跡はない。担当者は「引き継がれた段ボール箱に入っていた。詳しいことは分からない」と話す。
 当時の経緯を知る沖縄県教職員組合(沖教組)元委員長の石川元平さん(85)によると、背景に米軍基地を残したまま復帰することへの不満があったという。米軍施政下の59年、旧石川市(現うるま市)の小学校に米軍の戦闘機が墜落し、児童12人を含む18人が亡くなるなど、基地に起因する事件事故で多くの児童生徒が犠牲になった。
 復帰に対する県民の要求は「即時無条件全面返還」だったが、沖縄返還協定では復帰後も米軍基地の維持が明記された。石川さんは「基地が整理縮小されないままの復帰。とても『復帰おめでとう』とはならなかった」と振り返る。
 沖教組は72年4月25日、メダルの配布拒否を決定。回収が遅れた地域では一部配布されたが、多くの学校は受け取りを拒否したり、返納したりした。宙に浮いたメダルはその後、県内の各地に散らばった。
 「復帰の中身を勝ち取るのは君たちの責務だ」。石川さんは、秘書として仕えた屋良朝苗・初代沖縄県知事からこう託されたと話す。「僕らは本土に足を踏まれた存在。米軍基地や安保の十字架を背負わされている沖縄のことを、国民一人ひとりが考えてほしい」と強調する。

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