“ズッコケ三人組”児童文学作家 那須正幹さん未発表作品発見

東京, 12月18日, /AJMEDIA/

「ズッコケ三人組」シリーズなどで知られ、ことし7月に亡くなった児童文学作家の那須正幹さんの未発表作品を親しい人が保管していたことが新たに分かりました。原爆で家族を失った「ばあちゃん」と孫の「ぼく」の交流を通じて命の大切さを訴える内容で、広島出身の那須さんが抱いていた平和への強い思いを伝えています。

那須さんの未発表作品「ばあちゃんの詩」は、広島市東区民文化センターの山本真治館長が保管していました。

原爆が投下されて70年に当たる2015年8月の平和祈念コンサートのため、山本さんが那須さんに依頼して書かれた2つの作品の1つですが、当時はもう一方が採用され、一般に公表されることはありませんでした。

この作品には、広島の原爆で兄を失い、その後の原爆症で父と母も亡くした「ばあちゃん」と中学生の孫=「ぼく」の交流が描かれています。

兄のことをいつまでも忘れられない「ばあちゃん」は、高齢のために「ぼく」のことを“兄ちゃん”と呼ぶようになり、毎日、玄関で帰宅を待っています。

最初はとまどっていた「ぼく」ですが、「ばあちゃん」の笑顔を見て、自分たちは絶対に戦争をせず子どもも殺さないこと、そして二度と悲しい思い出を作らないことを約束するという物語です。

「ズッコケ三人組」シリーズで知られる那須さんは、みずからの被爆体験を踏まえて戦争や原爆をテーマにした作品を手がけ、「ばあちゃんの詩」にも子どもたちに平和な未来を残したいという強い願いが込められています。
作品を保管していた山本さんは「800字を切るぐらいの短い物語ですが、那須先生が広島への思いを込めて書いた作品です。皆さんに先生の思いを知ってもらいたい」と話していました。

山本さんは「ばあちゃんの詩」に音楽をつけたうえで、来月予定しているコンサートで披露したいとしています。
那須正幹さんプロフィール
ことし7月、79歳で亡くなった那須正幹さんは、1942年に広島市で生まれ、3歳のとき、爆心地から3キロほどのところにあった自宅で被爆しました。

東京での暮らしを経験したあと、広島に戻って児童文学を志し、1972年に「首なし地ぞうの宝」という作品でデビューしました。

その6年後、小学6年のハチベエ、ハカセ、モーちゃんが活躍する「それいけズッコケ三人組」を発表し、2004年に50巻で完結させるまで26年にわたり、書き続けました。
このシリーズには「子どもを大人と対等に扱うべきだ」という那須さんの考えで、自殺や離婚、お金をめぐるエピソードなど当時の児童文学ではあまり扱われなかったテーマが取り入れられました。

こうした思いは子どもたちにも届いて多くの支持を集め、累計発行部数、およそ2500万部のベストセラーとなりました。

那須さんのもう1つの特徴は、みずからの被爆体験を踏まえ、戦争や原爆をテーマにした作品を数多く手がけたことです。

1995年に発行された「絵で読む 広島の原爆」では、当時の広島の街や暮らし、原爆の構造、放射線の影響などを多角的に取り上げました。

また、2011年には戦後の広島を力強く生きた人々の姿を描いた「ヒロシマ」3部作を発表しました。

那須さんは、執筆活動のかたわら、依頼されれば積極的に講演会などに参加して核兵器の廃絶を訴えるなど、子どもたちに平和な未来を残すための情報発信を続けました。
未公開作品“ばあちゃんの詩”誕生秘話
那須正幹さんの未公開作品「ばあちゃんの詩」の誕生までには、う余曲折がありました。

広島市で文化に関わる仕事をしていた山本真治さんは、2013年、原爆投下から70年となる2年後の2015年8月に開催することになった平和祈念コンサートで、「ヒロシマ」をテーマにした新しい歌を披露できないかと考えました。
作曲家として白羽の矢を立てたのは広島にゆかりがあり、その後、数々の合唱曲やテレビのウルトラマンシリーズなどの音楽を手がけた冬木透さん、本名・蒔田尚昊さんです。

そして、作詞については、広島で被爆し、平和の大切さを広く訴えてきた那須正幹さんが適任だと考えました。

那須さんは戸惑った様子だったということですが、依頼を引き受け、「ばあちゃんの詩」と「ふるさと広島」という2つの作品を書き上げました。

しかし、大人向けのものを考えていた冬木さんのイメージとはズレがあり、新しい歌作りはなかなか進展しませんでした。

山本さんは、冬木さんの住む東京と那須さんの住む山口県を行き来しながら間を取り持っていましたが、一時は那須さんから「相性があるから、合わなければ恨みっこなしでやめましょう」と告げられたこともあったということです。

山本さんは当時のことについて「胃が痛かった。那須さんから『やめよう』という話が出たときにはドキッとしましたが、冬木さんと那須さんに何とか歩み寄ってもらって丸く収まりました」と苦笑いを見せました。

最初の依頼から2年近くがたち、予定されたコンサートの直前になって広島の情景が織り込まれ、大人から子どもまで歌うことのできる楽曲として、那須さんの「ふるさと広島」を基にした「ふるさとの詩」がようやく完成しました。

コンサートではソプラノ歌手がピアノの演奏とともに披露し、客席で聞いていた那須さんは「僕が書いた作品がこんなに聞きやすい歌になるとは思っていなかった」と喜んでいたということです。

冬木さんと那須さんの2人が直接会ったのは、歌を作ることが決まった直後と、その翌年の2回だけでしたが、その後も、山本さんが冬木さんを訪ねると「那須先生はお元気かね」と聞かれ、那須さんを訪ねると「冬木先生はお元気かね」と聞かれたそうです。

一方で那須さんが書いた「ばあちゃんの詩」についてはいわばお蔵入りとなり、ことし7月に那須さんが亡くなったあとも一般にその存在を知られることはありませんでした。

那須さんについて改めて冬木さんに話を聞いたところ、「僕は旧満州から引き揚げてきて原爆を知りませんでした。僕自身にも原爆について思いを吐き出したいような気持ちがありましたが、その相手が見つかりませんでした。那須さんなら受け止めてくれる。そして語り合えるような、そんな気がしていました」と振り返りました。

そのうえで今回、「ばあちゃんの詩」の存在が明らかにされ、来年1月のコンサートで一般にも披露される予定になったことについては、「それはいいかもしれない。那須さんの世界に入っていくための、1つの立派な作品だと思う」と感慨深そうに話していました。

Follow us on social

Facebook Twitter Youtube

Related Posts