現金540億円、空前の大輸送 ドルから円へ通貨交換―沖縄復帰50年

東京, 4月26日, /AJMEDIA

 1972年5月15日、本土復帰とともに、沖縄の法定通貨は米ドルから日本円へと替わった。日常的に使う通貨がある日を境に別の通貨に切り替わる、大多数の日本人にとって未経験の「通貨交換」。沖縄では戦後繰り返されたが、復帰時の通貨交換は540億円もの現金を本土から運ぶ世界にも前例のない「空前」の規模だった。
 「来たぞ!」。72年5月2日。開設を控えた日銀那覇支店の家族寮4階から夜明けの東シナ海に目を凝らしていた同支店初代次長となる堀内好訓さん(当時44)は、水平線に現金540億円を積んだマッチ箱のような2隻の海上自衛隊輸送艦の船影を見つけると、興奮して叫んだ。
 厳戒態勢の中で陸揚げされたコンテナ160個余りの現金は、トラック5台に積まれ日銀那覇支店に輸送。一部は宮古島や八重山諸島などにも運ばれ、5月15日の本土復帰とともに190カ所で沖縄の人々が持つドルと交換された。通貨交換初日、琉球銀行の本店では「雨の中を長蛇の列ができ、閉店時間を過ぎてもその状態が続くありさまだった」(琉球銀行70年史)という。
 本土復帰のために不可欠だった通貨交換だが、同時に沖縄の人々に痛みを強いる格好ともなった。前年の8月、当時のニクソン米大統領がドルと金の交換停止を突如発表した。いわゆる「ニクソン・ショック」で、ドルの価値は急速に下落。1ドル=360円に固定されていた為替レートは切り下げられ、本土復帰に伴う交換レートは305円に決まった。
 それは沖縄の人々にとっても、所有するドルが2割近く目減りすることを意味した。日本政府は71年10月、交換時の差損を補償するため、住民が所有するドルを申告させる異例の「通貨確認」を実施。だが、それ以降のドルは補償の対象外とし、復帰までに損失が膨らむことを防ぐための通貨交換の先行実施にも応じることはなかった。
 「全てむなしいことのように思えて気も重くなる」。琉球政府の屋良朝苗主席は、当時の日本政府などとの折衝の様子を日記にそうつづった。
 一方、「割高」な日本円に交換された復帰直後の沖縄では、便乗値上げもあって物価が高騰。社会問題ともなった。
 6日間かけて行われた通貨交換で、円に交換されたドルは約1億300万ドル(約315億円)。通貨統計がなかった沖縄で、堀内さんら日銀の担当者が金融機関を何度も訪れ、足で稼いではじき出した「約1億ドル」という交換額の予測とほぼ変わらなかった。
 「輸送から交換まで人的犠牲を出さずに達成できたことに何より安堵(あんど)した」と堀内さんは振り返る。回収されたドルはその後、多くがサンフランシスコ連邦準備銀行に輸送。歴史的な通貨交換は完了した。

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