首里、沖縄勢初の夢舞台 甲子園の土が「友愛の小石」に―植物防疫法で海へ、そこから…・復帰50年

東京, 5月06日, /AJMEDIA/

 1958年8月、高校野球界で歴史的な一こまがあった。夏の全国高校野球選手権大会は40回目を迎えた「記念大会」と位置付けられ、各都道府県と沖縄から1校ずつの計47校が参加。戦前、戦後を通じ初めて、沖縄勢が甲子園の夢舞台に立った。沖縄大会を勝ち抜いたのは首里。敦賀(福井)との初戦は0―3。首里の選手たちは試合後、グラウンドで甲子園の土をすくった。今でも見られる光景だ。記念の土を沖縄に持ち帰ろうとしたが、帰路の船で「待った」が掛かった。当時の沖縄は米国の統治下。甲子園の土といえども、植物防疫法に抵触する「外国の土」とみなされ、防疫官によって那覇港の海に捨てられた。時代を象徴するようなエピソードとして知られている。
 ◇まつわる歌も
 那覇港での一件は、新聞で報じられた。すると、日本航空の客室乗務員が行動を起こす。首里の卒業生でつくる一般社団法人「養秀同窓会」の資料や県高校野球連盟の「沖縄県高校野球五十年史」によると、客室乗務員だった近藤充子さんが関係者の協力を得て甲子園の小石を拾い集め、高校に贈った。「土の代わりに、せめて…」との思いを込めて。絹の布を敷いて小石を入れたガラス張りの箱が、58年9月上旬に空路で届けられた。
 その後、学校の敷地内に二つの石碑が建てられた。小石がはめられた「友愛の碑」と「甲子園出場記念の碑」。それから60年以上、そして本土復帰50年の今も、変わらずに息づいている。
 首里と甲子園の土、さらに「友愛」をめぐって、まつわる歌も誕生した。たなかゆきを作詞、原伸二作曲の「日本の土」。歌詞は3番まである。
 養秀同窓会の事務局長を務める中今純さん(73)は、首里が甲子園に初めて出た世代よりも少し下。高校時代は学校で、「日本の土」を応援歌として歌うことがよくあったという。「だから、今でも口ずさめるんです」。歌詞もメロディーも、すらすらと出てくる。
 ◇受け継がれる伝統
 これまで春夏の甲子園に2度ずつ出場した首里。69年の選抜大会を最後に甲子園から遠ざかっている。甲子園に出たのは、いずれも米国統治下の頃。本土に復帰してからは、まだ一度もない。
 それでも毎年、目標は不動だ。今年の主将、松田桂哉選手は「甲子園に行こうな、という声掛けを続けていきたい」と話す。「兄も首里の野球部員だった。学校でいつも(教室に向かう際に)石碑の前を通る。ここのキャプテンでよかった」。伝統は受け継がれていく。

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