「国葬」決断に見る首相の“変身”

東京, 7月31日, /AJMEDIA/

 岸田文雄首相が参院選の遊説中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の「国葬」を決断し、9月27日に日本武道館で執り行うと決めたことが、政界に複雑な波紋を広げている。首相在任期間の史上最長を更新し、外交を中心に多大な成果を挙げた安倍氏だけに、国民の間でも「国葬」での追悼への支持は多い。ただ「モリカケ」問題など、安倍政治には“負の遺産”も目立つことから、与野党双方に「熟慮不足」(立憲民主党の泉健太代表)との批判も広がる。首相官邸周辺にも「慎重居士だった首相の大変身」に驚く声が多く、新型コロナウイルスの感染爆発による過去最大の「第7波」襲来もあり、首相が国葬直前まで、多数の参列が見込まれる外国首脳への接遇などで対応に苦悩する事態も想定される。
 首相の「国葬」決断は世界に衝撃を与えた安倍氏死去から、わずか6日後の14日に公表された。同日夕の官邸での記者会見で首相自らが電撃的に宣告し、各メディアは「重大速報」として世界に発信した。首相周辺によれば、安倍氏の死去以来、葬儀の形式に悩んでいた首相が、「国葬」実施に傾いたのは13日だという。意向を踏まえて秘書官らが極秘で具体的手続きを検討し、内閣法制局から「法整備抜きの閣議決定も可能」との見解が示されたことが決め手になったとされる。
 そもそも戦後、首相経験者の国葬は吉田茂氏だけで、安倍氏に次ぐ長期在任期間を樹立した佐藤栄作氏は「国民葬」だった。さらに1980年死去の大平正芳氏以降は「内閣・自民党合同葬」が慣例化していた。戦前の国葬令は廃止されており、多額の国費投入への賛否も分かれていたため、政府内でも「国葬実施には法整備が必要」(官邸関係者)との声が強かったからだ。だからこそ首相も、安倍氏が死去した8日の段階では「考える余裕はまだないが、相当の敬意を表してしっかり対応を考えるべきだ」と慎重な物言いに終始せざるを得なかった。
◇岸田1強で目指す「脱・検討使」
 首相は当初から「国葬」を念頭に置きながら、世論の風向きを見ていたとみられる。参院選前までは「検討使」とのやゆを甘受してきた首相だが、国民の審判による自民大勝で文字通りの「岸田1強」が確立した時点で、「今後の政治的重要課題は、すべて首相決断が必要」(側近)との意識変革を迫られていた。特に安倍氏死去の衝撃の大きさで、国内世論は「安倍氏を支持してきた保守派の声ばかりが目立ち、安倍氏のすべてを美化する通夜状態」となっていたことが、首相の背中を押したのは否定できない。
 もちろん政府内は前例主義にこだわる向きが多く、「国葬」論は少数派だった。加えて、自民党内の保守派からは「『国葬』の是非を論争することが、安倍氏の功績に泥を塗る」との懸念が示されていた。首相側近の間でも「これまでの岸田流の政治手法なら『国葬』は現実的ではない」との意見が大勢だったとされる。にもかかわらず、首相が決断したのは「ここで、決められないトップリーダーとの烙印(らくいん)を押されると、せっかく手にした1強の座が揺らぐ」との強い強迫観念からとみられている。
 政権発足後10カ月間の首相の行動原理は「政権運営に影響を与えかねない難題については『慎重に検討し、総合的に判断』という結論先送り」が常態化していた。首相自身は「選挙に勝った後は、決断型に変身したいとの思いが強かった」(側近)とされ、今回は「『脱・検討使』の第一歩」(同)と受け止める向きが多い。ただ、コロナ禍での「国葬」実施への国際的反対論拡大も想定されるだけに、決断の成否はなお不透明な要素が少なくないのが実態だ。【政治ジャーナリスト・泉 宏】
時事通信社「地方行政」7月25日号より。

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