圧政に抵抗、復帰運動へ 自治制限と基地依存経済―米軍統治27年・沖縄

東京, 5月15日, /AJMEDIA/

 沖縄県は1945年から米軍統治下に置かれ、50年前の72年5月15日、本土に復帰するまで「アメリカ世(ゆ)」とも呼ばれた。当時、全権を掌握した「琉球列島米国民政府」(USCAR)は琉球政府の自治を制限し、「強いドル」政策の下、基地依存の輸入型経済を推進。基地建設のための土地の強制接収など軍事優先の圧政は、住民の抵抗運動「島ぐるみ闘争」へとつながり、復帰運動へと発展した。
 戦時中、「鉄の暴風」と呼ばれた砲撃により焦土と化した沖縄。52年4月、サンフランシスコ講和条約発効で日本は主権を回復したが、沖縄は本土から分断された。
 米軍統治時代、住民側の中央政府として琉球政府が置かれた。三権分立制が取られ、住民の直接選挙で選ばれた議員による立法院もあったが、政府の権限はUSCARが発する布告や布令などが優先され、裁判所は米兵犯罪に関与できなかった。
 USCARトップは米軍人が務め、後に「高等弁務官」と呼ばれた。琉球政府の長である行政主席の任命権など絶大な権限を所持。61~64年に務めたポール・W・キャラウェイ中将は「沖縄の自治は神話」と演説し、圧政の象徴的な存在として人々に記憶されている。
 通貨制度は復帰までに何度も変更。米軍発行のB型軍票(B円)は58年まで法定通貨として使われ、1ドル=120B円で通貨交換された。当時の日本は1ドル=360円の固定レート。円と等価だったB円に3倍の価値を持たせたことで、輸入に有利に働く一方、輸出は不利なため、沖縄では雇用の柱となる製造業が育たず、基地依存の経済が形成された。
 占領下の沖縄では、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる土地の強制接収も行われた。米軍は住民の家を破壊し、田畑をつぶして土地を造成。米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)などが建設される一方、本土の基地は整理縮小され、沖縄への部隊移駐が進んだ。
 ただ、米軍による53年の「土地収用令」のほか、米兵の事件事故に対する処罰や不十分な補償など、軽視される人権に住民の怒りは爆発。米軍の強権的な手法は沖縄全域の反対運動「島ぐるみ闘争」を招き、「基地のない平和な沖縄を求める」復帰運動へとつながった。70年には米兵による交通事故を機に、米軍関係車両焼き打ち事件「コザ暴動」も起きた。

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