消滅都市 「小ヒロシマ」に残る相互不信 「王墓を掘り返し、 家畜も」-Part 3

東京, 2月10日, /AJMEDIA/

墓地には多くの地雷が仕掛けられていたという。アグダム奪還後、入域を許された元住民らはまず墓 地に行き、墓の状態を確かめようとした。 それを狙ってのことだという。 「アルメニア人は、私たちが最初 にどこに行くか、ちゃんと知っていたのです」
最後に、 新築の行政庁舎を訪ねた。 前庭に復興計画のパネルが掲げられている。 200ヘクタールの産業団地、1万人の学生を抱える大学、 1万5千人収容のサッカースタジアムと、壮大だ。 中心には、世界 最大規模の幅60メートルに及ぶ道路を設けるという。 いったん死んだ街をよみがえらせる壮大な計画。 その背後には、 資源大国として成長するとともに、 軍事的にも成果を収めたアゼルバイジャンの自信が うかがえる。

こうした戦勝国としての意識は、 ナゴルノカラバフ全域の奪還という次なる目標に結びついているように見える。
イマノフさんは言う。 「戦争(第2次紛争)で最も困難だったのはシュシャ攻略でした。 その先のハンケン ディを制圧しようと思えば、数分で陥落させられたのです。 そうしなかったのは、 多くの人が死亡するのを 避ける人道的な理由からです」

では、もし全域を奪還したら、 そこに暮らすアルメニア人の住民はどうなるのか。

「第1次紛争前は、 アゼルバイジャン人もアルメニア人も共存していたのです。 もし報復勢力 (アルメニ ア人の強硬派) がいなくなれば、 残ったアルメニア系住民と私たちは、隣人としてともに生きることができ る。それほどいい友にはなれないかも知れないけど」

「私たちは将来を見据え、 (アルメニア人と) 平和的に共存するつもりです。 ただ、この30年間に起きたことは忘れません」

イマノフさんが語る「アルメニア人との共存」は、アゼルバイジャンのあちこちでも耳にした。 ただ、尋ね てみると多くの場合、「アゼルバイジャン国籍を取得し、 アゼルバイジャン国民として生きるなら」との条 件がつく。 アゼルバイジャンに対して徹底的な不信感を抱くアルメニアが、 それを受け入れるとは思えな い。

同様にアゼルバイジャン側にも、真の共存への心構えが果たしてどこまでできているか。
19歳で亡くなった兄は、 英雄になった。
アグダム訪問を終えてバクーに帰る途中、すぐ近くのマフリズリ村に立ち寄った。 もともとはアグダム郊 外だが、停戦ラインのアゼルバイジャン側に位置していたために、アルメニア側の占領を免れた。 秋ままっさかりで、庭先の柿がたわわに実り、収穫済みのザクロが各戸の庭にあふれる。 1軒の民家に招き入れられた。

その家のシャヒブ・ママドフさん (52) は、 地元の小さな博物館の案内人を務めている。 博物館は、ママ ドフさんの兄で地元の英雄ラヒブさんを顕彰する。ラヒブさんはソ連の軍人で、現ジョージアの水害現場 で救援活動中に19歳で死亡し、 赤星勲章を授与された。 集会所の3部屋を利用した博物館を訪ねると、 アルメニアとの紛争で戦死した地元出身者をたたえるコーナーがつくられていた。

ママドフさんは、もう今後戦争は起きないと考えている。「私たちは強いからね。 アルメニアはイランやフランスの支援を受けているが、 我々の側には何よりトルコがいる」

同盟国トルコへのアゼルバイジャン人の信頼は厚い。 実際、第2次紛争ではトルコの支援が勝利にとって決定的だったと、 多くの専門家が見なしている。

ママドフさんは、アルメニア人との和解も可能だという。ただ、この村出身で第2次紛争に参加したとい 若者はためらいなく言った。 「アルメニア人との共存ですか。 無理ですね」

両者を隔てる溝の深さを見たように感じた。

今回の取材は、アゼルバイジャン政府に出した要請が認められて実現した。 ナゴルノ・カラバフとその 周辺の奪還地域での取材は、フランスのラジオ記者とともに行動するツアーで、行程の大部分に政府関 係者が同行した。 明確な取材規制はなかったが、 時間の制約もあり、取材対象は限られた。 奪還地域 以外の村や首都バクーでの取材に制約はなかった。

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