ウクライナをヨーロッパはなぜ「静観」するのか

東京, 3月16日, /AJMEDIA/

アゼルバイジャンにクルバン・サイードという人物が書いた『アリとニノ』という小説がある。アゼルバイジャンでは有名な小説だ。その冒頭に興味深い話がある。アゼルバイジャンの首都バクーのロシア人高校での話である。

進歩的ヨーロッパと反動的アジア
教師のサニンが生徒に向かってこう問いかける。アゼルバイジャンの都市バクーは、ヨーロッパに属するのか、それともそうでないのかと。「わが町は、進歩的ヨーロッパに属しているのか、反動的アジアに属しているのか、それを判断してほしい」と。これは1937年に出版された本であるから、ソ連時代ということになろう。

反動的とは、改革や革新に反対する姿勢のこと。教師は当然、生徒は全員ヨーロッパだと答えるだろうと期待していたのだが、あにはからんや生徒は「アジアです」と答えたのだ。主人公アリも、その仲間も次々とアジアだと答える。イスラム教徒たちはアジアが好きだと答えるのだが、教師は反動的アジアが好きであることに怒り、教室を去る。

ここで問題なのは、ヨーロッパは進歩的で、アジアは反動的であるという見解だ。日本人であるわれわれも、反動的アジアの一員であるより、進歩的アメリカやヨーロッパであることがいいと内心思っている。しかし、この生徒たちはむしろ逆にアジアであることを誇示するのだ。

コーカサスから中央アジアに至る地域は、イスラム圏だ。バクーの旧市街は、中東の市街そのものである。これらの地域は19世紀ロシア帝国の侵攻を受け、やがてソ連邦の共和国となり、ヨーロッパ文明の洗礼を受ける。しかし多くの人々は、長い間アジア文化の中にいたので、ヨーロッパであることを、容易には受け付けない。

私は40年前にユーゴスラビアのザグレブに住んでいた。ザグレブにはサヴァ川というドナウに注ぐ川が流れており、旧市街はその北側、新市街はその南側にあった。彼らは冗談半分に南の新市街の人々を、軽蔑的にバルカンそしてアジアと呼んでいたものだ。少なくとも、オーストリア・ハプスブルクとハンガリーの支配下にあったクロアチア人は自らをヨーロッパ人であると見ており、ユーゴスラビアの南の共和国、ボスニア=ヘルツェゴビナやセルビアの人々をアジア人として、見下して見ていた。

ヨーロッパの中心はイスタンブールだった
では、サヴァ川の向こうから見ると、どう見えるのだろうか。なるほど、西欧が世界を支配してきた歴史から見ると、この地域は反動的なアジアに見えるかもしれないが、向こう岸から見ればそうともいえないのだ。

歴史学者である渡辺金一の書いた『中世ローマ帝国―世界史を見直す』(岩波新書、1980)という本がある。その冒頭には、ローマ帝国崩壊後は西ローマではなく東ローマこそヨーロッパ世界の中心であったと書かれてある。確かに中世を見ると、ヨーロッパ世界の中心は西ではなく、東ローマの首都すなわちイスタンブールこそヨーロッパの中心であったことがわかる。

やがてこの地域は、15世紀にオスマントルコ帝国に支配されていく。しかし、オスマン帝国においても、この地域は後れたアジアになったのではなく、16世紀から17世紀まで繁栄を極めるオスマンの中心になったのである。オスマン帝国は、オーストリア帝国のウィーンまで迫り、やがて撤退するが、かつては繁栄を誇ったのだ。

そうした視点から見ると、すべては逆に見える。サヴァ川の北のヨーロッパ的旧市街こそ辺境の地で、南のバルカン地域こそ進歩的世界であるのだ。今、パリやロンドンに近いことが進歩的だとすれば、その時代はイスタンブールに近いことが進歩的であったことになる。私のところにセルビアからの留学生が来ると、必ずこの話をすることにしている。

19世紀になると、しかしこの状態はまったく逆になってしまった。拡大する西欧、イギリス、フランスのもとで、ヨーロッパは衰退するオスマン帝国の領土をつぎつぎと奪ってゆく。その始まりがギリシャ独立運動だ。ここで、19世紀のヨーロッパから見た視点、すなわちオリエンタリズムが完成する。主客は転倒し、ビザンツ=オスマンから見る視点ではなく、西欧から見る視点が世界史の視点となる。

「進歩的な西欧、反動的なアジア」というイメージは、そこから生まれるのだ。それ以後、オスマン支配下にあったセルビアやボスニアは、後れたアジア地域のヨーロッパになる。オスマントルコといえば、その領域はペルシャとともにウクライナの南の黒海地域、そしてグルジア、アゼルバイジャン地域へ広がっていた。

だから、すでに紹介した小説の主人公アリは、教師からアゼルバイジャンは反動的アジアに入るのか、それとも進んだ西欧に入るのかと問われたのである。ウクライナやコーカサス地域は、ロシアによってすでにオスマントルコからロシアに引き入れられ、晴れてヨーロッパとなっていたのである。だから、ヨーロッパとはいわゆる西欧ヨーロッパの侵攻した地域だけでなく、コーカサス地域までに広がっていたのだ。

ロシアはヨーロッパなのか?
しかし、一方でロシアですらヨーロッパなのかという問題が残る。17世紀末にヨーロッパに接近したロシアは、自らをヨーロッパだと感じてきたのだが、ヨーロッパのほうはそう思っていなかったのだ。「野蛮なロシア」は、ヨーロッパの鬼子であり、アジア的、タタール的野蛮の象徴だったともいえる。ビザンツ文明の正統派でもあったロシアは、ビザンツ帝国がオスマン帝国に支配されたときに、その中心のビザンツ中央文明になるはずであったのだが、ロシアはヨーロッパの周辺文明になることを選択したのだ。その結果、ロシアはつねに西欧文明の周辺文明というコンプレックスを抱くことになる。

ヨーロッパ文明を受け入れ、アジアでありながらアジアでない西欧の周辺国を選んだ日本より1世紀以上早く西欧の周辺文明国となったロシアは、日本同様、ヨーロッパであると信じつつヨーロッパとして相手にされない屈折した国となったのである。それでは、そこから離れたウクライナはどうか。この居心地の悪さは、ロシアだけでなくウクライナ、さらにセルビアにもいえる。

イスラム圏としてしっかりとアジアにとどまることを決意したアゼルバイジャンと違い、正教会のセルビアとウクライナは微妙だ。正教会の祖国ギリシャはすでにヨーロッパとして歓迎され、西欧文明の祖国として珍重されている。ロシアに分割されていたカトリック・ポーランド領も、すでに進歩のヨーロッパに組み込まれている。

セルビア人は、クロアチアというヨーロッパ文明の周辺国と仲が悪い。犬猿の仲といってもいい。すでにルーマニアもブルガリアもEUに入っているのに、このまま宙ぶらりんの状態であることは気がかりだ。しかし、西欧はセルビアをなかなかヨーロッパ人として認めようとしない。それを示したのがユーゴ内戦(1991~2001年)だ。セルビアも進歩と文明のヨーロッパというブランドは欲しいが、クロアチアに小馬鹿にされることにいい気持ちはしない。

それ以上に、1990年代のユーゴ内戦における心の傷は大きい。セルビアはユーゴ内戦で徹底して悪者扱いされたことに、誇りを傷つけられている。アメリカのミサイルがベオグラードを直撃したことから、セルビア人は「セルビアはヨーロッパではない、アジアの一地域のように扱われた」と感じたのだ。

この戦争はまだEUが成立して間もない頃の出来事であったので、EUに解決能力はなく、NATO(北大西洋条約機構)のアメリカが内戦に干渉せざるをえなかったのだとしても、セルビアのショックは大きなものであった。それが、今もセルビアがロシアとアメリカとの間で宙に浮いている理由である。

おたおたしているEU
しかし、あれから20年以上が過ぎても、EUはEUとしての軍事組織や外交組織を持ちえていない。つねに個々の国の戦略が表に出ていて、EUを構成する諸国家の寄り合い所帯の域を出ていない。今、世界の外交バランスでいえばアメリカ、ロシア、中国の間に、経済的規模は大きいが政治的、軍事的力の弱い一地域としてのEUが存在するというような状況である。

セルビアは、このEUに頼ることは不安である。同じことは今回、ウクライナについてもいえる。アメリカの挑発とそれに乗ったロシアとの間に起きた今回の戦争において、EUにはまったく解決能力がないのだということを示してしまった。ヨーロッパは進歩、文明の地であったはずだが、いまや近隣諸国の軍事バランス変化の中でおたおたとしている状況である。今回の問題の解決をEUが出せなければ、EUは進歩の歴史の中心から立ち去るしかない。

最初に紹介したアリのように、非ヨーロッパでありたいということが一般的になれば、いよいよ西欧の出番はない。しかし、このことは西欧の周辺に陣取り、西欧風を気取っていたロシア、そして日本にもいえる。本物の西欧の衰退とともに、偽物の西欧も歴史の中心舞台から去らざるをえないのかもしれない。

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