政治改革、道半ばで挫折 海部俊樹元首相評伝

東京, 1月15日, /AJMEDIA/

 海部俊樹元首相が亡くなった。リクルート事件をきっかけに政治不信が高まる中、クリーンなイメージを買われて第76代首相に就任。東西冷戦終結直後の荒波にもまれる日本のかじ取りを担った。政治改革に心血を注いだが、自民党にはしごを外される形で挫折。最大派閥に担がれ、自前の権力基盤を持たない指導者の悲哀を味わった。
 海部氏は、「ニューリーダー」と呼ばれた安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一3氏の次世代の首相候補の一人と目されていた。しかし、竹下内閣退陣に続き、宇野宗佑首相がわずか2カ月で辞任する政局の急展開でトップに押し上げられた。河本敏夫元国務相率いる河本派に所属した海部氏は、最大派閥・竹下派の実力者、小沢一郎氏らから自民党総裁選への出馬を促され、「おれのところには親分がいる」といったんは断ったとされる。
 参院選で惨敗した自民党の再生を託され、1989年8月、初の昭和生まれの首相となった海部氏は、政治不信のどん底にあった党の変化を印象付けた。翌90年2月の衆院選では、小沢幹事長とのコンビで同党を275議席の圧勝に導いた。だが91年4月、小沢氏が東京都知事選で党本部推薦候補が敗北した責任を取って辞任すると、政権基盤は弱体化した。
 海部氏が掲げた政治改革の眼目は、派閥政治の温床とされた中選挙区制を小選挙区制に改め、政策本位の選挙を実現することだった。だが、衆院への小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする政治改革関連法案がまとまると、三塚、宮沢、渡辺3派が竹下派支配への反発も相まって一致して反対。同9月末、法案は廃案となった。
 海部氏は「重大な決意」を口にして衆院解散をにおわせ、事態打開を図る構えを示す。しかし、後ろ盾と頼んだ竹下派の支持を得られず、退陣に追い込まれた。記者会見で真意を問われた海部氏は、「私の胸にしまい込む」と口を閉ざした。
 激動の時代、海部氏は竹下派の同意なしに重要な決定を下せなかった。回顧録には「『権力の二重構造』を、ある程度乗り越えられる自信もあった」と記したが、実際には「パペット(操り人形)」との評価が付きまとった。当初は親しみやすさをアピールしていたが、間近で見た政権末期の宰相にそんな余裕はなく、眉間にしわを寄せ、記者の質問にも不機嫌に黙り込む姿が印象に強い。
 小選挙区制は次の宮沢内閣を経て、細川内閣の下で94年に実現した。欠点が指摘されて久しい制度だが、4年前、取材に応じた海部氏は「理想に近い制度だと思って取り組んだわけだから、簡単に諦めないで、どこをどう変えたらいいか、みんなで議論すればいい」と力説。改革に要した時間とエネルギーを熟知すればこそのこだわりだった。

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