東京, 10月17日, /AJMEDIA/
背番号10の華麗なイメージを持たれる中村だが、そのキャリアは苦闘と挫折の歴史でもある。身長が伸びず横浜Mの下部組織からユース昇格はかなわなかった。プロ入り後はW杯日韓大会に臨む日本代表メンバーから落選。悔しさを押し殺し「この経験を生かさなきゃいけない」と言った。
折れない強さがあった。「ただ、うまくなりたい」。サッカー少年のような情熱が細身の体を幾度も奮い立たせた。主力となったジーコ・ジャパンでは2004年アジア杯制覇の原動力となり、セルティックでは06年の欧州チャンピオンズリーグ(CL)で強豪マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)を相手に「伝説」のFKを2発。特にホームで28メートルの距離から決めた一撃は語り草だ。
W杯ドイツ大会は体調不良などで本来のプレーを出せず、集大成だった南アフリカ大会は控えに。大舞台では輝くことができなかったものの、横浜M復帰後も13年に史上初となる2度目のJリーグMVP。17年にクラブと強化方針をめぐって対立し、苦渋の決断で退団。それでも純粋にボールを追い掛け続けた。
26年のプロ生活は幕を閉じる。家族の後押しで現役続行を決断した今季も納得のいくシーズンではなかっただろう。だが、セルティックでは今もサポーターから愛され、自身が切り開いた道をたどった古橋亨梧ら日本選手が多数活躍する。偉大なレフティーの功績は色あせることなく、未来につながっていく。