東京, 03月06日 /AJMEDIA/
世界的に優れた建築家に贈られ「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるアメリカのプリツカー賞のことしの受賞者に、建築家の山本理顕さんが選ばれました。
プリツカー賞は、建築界で最も権威のある賞で「建築界のノーベル賞」とも呼ばれています。
5日、主催するアメリカの財団はことしの受賞者に建築家の山本理顕さんを選んだと発表しました。
山本さんは78歳。
今の中国・北京で生まれ、日本大学などで建築を学んだあと、公共の建物や個人の住宅など数々の設計に携わりました。
代表的な建物として国内では、神奈川県の横須賀美術館や、北海道の公立はこだて未来大学、海外ではスイス・チューリヒにある複合施設「ザ・サークル」などがあります。
山本さんの建築は、外壁を広い透明なガラス面にして中が見えるようにしたり、開放的な空間を取り入れたりしていることが特徴の一つです。
財団側はこうした特徴が建物の内側と外側の境界を目立たないようにし、建物を通して人々が集まり、交流する機会を増やす役割を果たしていると評価しています。
プリツカー賞は1979年に始まり、これまで丹下健三さんや安藤忠雄さんらが受賞していて、日本人としては2019年に受賞した磯崎新さんに次いで9人目です。
山本理顕さん「コミュニティーを重視」
プリツカー賞の受賞者に選ばれた山本理顕さん(78)はNHKのインタビューに対し「ほかの建築家と違って強い社会的な提案をする私の建築は、賞とは結び付かないと考えてきたので、本当に驚いてしまって、アイム・ベリー・ハッピーということば以外、なかなかいいことばが思いつきませんでした」と受賞の喜びを語りました。
広島市西消防署
山本さんが建築家として一貫して重視してきたのは現代社会で失われつつある、人と“コミュニティー”とのつながりだといいます。
“コミュニティー”をともにする人どうしが、同じ地域に住んでいるだけの関係ではなく、家族でなくてもお互いに助け合えるような関係づくりを建築の力で後押ししたいと考えてきました。
こうした“コミュニティー”づくりを意識した建築の例の1つとして山本さんが挙げたのが、2000年に完成した広島市の西消防署です。
地下1階、地上8階建てのビルの外壁はガラスで覆われていて、ビルのなかの様子が建物の外から見えるように設計されています。
この建物について山本さんは「消防署で訓練をしたり災害に備えたりしている消防士が24時間そこにいることを外から見ることができれば、“コミュニティー”の人たちにとって、ものすごく安心できることではないかと思っています。公共性の高い建築や非常にプライバシーの高い建物であったとしても、外に開くような努力をして、それを外に視覚的にも見えるように作っているということが評価された点だと思います」と話し、建物を設計するうえで“コミュニティー”を考慮することの重要性を強調しました。
パンギョハウジング
半世紀に及ぶキャリアのなかで、山本さんはこうした公共性の高い施設だけでなく、住宅の設計も数多く手がけてきました。
代表的な建築の1つ、韓国の首都ソウルの郊外ソンナム市(城南市)に作られた「パンギョハウジング」は、10戸前後が入る集合住宅が複数集まってできています。
それぞれの建物には共有の広場に面したガラス張りの広い玄関ホールが設けられ、住民どうしの交流を促す設計になっています。
山本さんは「世界的にも伝統的な住宅は“コミュニティー”と一緒に暮らすことを考えて作られてきましたが、近代化とともに個人のプライバシーが重要になり、それを守るために1軒ずつがばらばらの住宅が一般的になりました。私は建築のしかたによっては“コミュニティー”を大切にすると同時に個人や家族のプライバシーを大切にするような空間が実現できると考えていて、そういった建築を提案してきました。その点をプリツカー賞の審査員は非常に高く評価してくれたと思います」と話していました。
平田みんなの家
また、山本さんは同じプリツカー賞を受賞した建築家の伊東豊雄さんたちとともに、13年前の東日本大震災で被災した人たちの憩いの場となる集会所を建設するボランティア活動にも参加しました。
山本さんが設計を手がけ、2012年に完成した岩手県釜石市の仮設住宅団地の集会所「平田みんなの家」にはキッチンが備え付けられ、料理やお酒を楽しむことができるように作られました。
ことし1月に起きた能登半島地震の被災地では、住宅だけでなく、基幹産業を支える漁港や輪島塗の工房なども大きな被害を受けるなか、山本さんはこれまでの能登半島の“コミュニティー”を守りながら住宅の再建を進めることが重要だとして、今後、被災地を訪れて地域の住民や建築家と意見を交わすことにしています。
山本さんは「どのようなまちを作るかという計画が先にあって、それで初めて復興を進めることができると思っていて、その手伝いをわれわれ建築家はできると考えています。どういうまちに住んでいたかという記憶を残し、今まで住んできた“風景”や“コミュニティー”を大切にするような復興のしかたがあると思うので、その方法を被災地の皆さんと考えていきたいです」と決意を語りました。