アゼルバイジャンの国父ヘイダル・アリエフ元大統領
―共和国繁栄の功労者―

東京, 11月18日, /AJMEDIA/

日本の雑誌新国策に、アゼルバイジャンの国父ヘイダル・アリエフ元大統領に関する松長昭教授の記事が掲載されました。 記事を視聴者に紹介します。

開志専門職大学客員教授
本会幹事 松長 昭
一.はじめに
首都バクーの風景
アゼルバイジャン共和国は、コーカサスに位置するソビエト連邦を構成していた国である。アゼルバイジャンの首都バクーは、高層建築が林立し、外資系高級ホテルが営業し、有名ブランドのブッティクがおおくあって、高級乗用車が街中を走り、産油国としての発展と繁栄ぶりを見ることできる。アゼルバイジャン国民はカスピ海から石油・天然ガスからの収入による恩恵で繁栄を謳歌している。
アゼルバイジャンは、一九九一年のソ連消滅で独立したが、その当初は政治的・経済的な混乱が続き、カスピ海の石油採掘施設が老朽して採油量低下などから石油収入も低調であった。アゼルバイジャンの低迷期から発展と繁栄の転換期に貢献したのが、共和国第三代大統領ヘイダル・アリエフ(一九二三―二〇〇二)であった。彼はその功績によりアゼルバイジャンの「国父」と称えられている。
一九九一年のソ連消滅によりアゼルバイジャン共和国が独立国としてスタートした。歴史的には、一九一七年のロシア革命後、一九一八年から二十三ヶ月間、アゼルバイジャン民主共和国として独立国であった。しかしアゼルバイジャン人はボリシェビキ赤軍派により独立を奪われ、ソビエト連邦を構成する共和国を強いられていたと思い、独立を回復したと表現している。アゼルバイジャンはソビエト連邦から独立したが、ソ連末期から政治と経済は混乱と混迷が続いていた。ソ連末期、ゴルバチョフが推進した改革政治ペレストロイカやグラスノチにより民族のくびきが解かれ、アゼルバイジャン内のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア系住民がアゼルバイジャンからの独立を求める民族紛争が次第にエスカレートした。アゼルバイジャン独立後、ムッタリボフ大統領やエルチベイ大統領はアゼルバイジャン内外の諸問題を解決することができなかった。ヘイダル・アリエフがアゼルバイジャンの内外での混乱に終止符をうち、アゼルバイジャンの発展と繁栄に基礎を固めた。彼の功績から、「アゼルバイジャンの国父」と称えられている。アゼルバイジャン現代史では、ヘイダル・アリエフという政治家をぬきに語ることはできない
1 ヘイダル・アリエフ大統領肖像
二〇二二年九月二九日、イルハム・アリエフ大統領(ヘイダル・アリエフの長男)は、「二〇二三年をアゼルバイジャンにおける『ヘイダル・アリエフ年』と宣言する大統領令」に署名した。二三年五月十日は、アゼルバイジャン国民の国家指導者のヘイダル・アリエフの生誕百周年にあたる。アゼルバイジャンでは、記念日や式典で「独立アゼルバイジャンは偉大なる指導者ヘイダル・アリエフの傑作である」とのスローガンが称揚されている。今年がアリエフの生誕百年の記念の年にあたり、彼の足跡を振り返りながら、新興国アゼルバイジャンが内政外政の混乱する国から、政治的に安定し経済的に発展する産油国へ変貌していることを明らかにしたい。

二.ソ連末期と独立直後のアゼルバイジャン情勢
第二次世界大戦後のソビエト連邦の発展は、ブレジネフ書記長時代(一九六六―一九八二年)が絶頂期であった。アゼルバイジャンでもブレジネフの盟友であったヘイダル・アリエフ時代に絶頂期を迎えた。しかし、バクー油田は枯渇し、製油施設や工場が老朽化した。公害も悪影響を及ぼし社会全般が沈滞していた。ソ連の混迷期に直面してアリエフや彼の後任もソ連末期に有効な対処をすることができず、ソビエト・アゼルバイジャンがソ連消滅とともに最後の日を迎えるのであった。
一九八九年三月十五日、ゴルバチョフがソ連大統領に就任した。ゴルバチョフの信任が厚かったヴェジロフは、市民運動として出発したアゼルバイジャン人民戦線と協調路線をとりつつ、八九年九月にアゼルバイジャンの主権宣言を行った。アゼルバイジャン人の反ソ感情が高まりデモが頻発した。九〇年一月、アゼルバイジャン国内での混乱収拾を目的にソ連内務軍と国防軍部隊がバクーに投入されてデモ隊を鎮圧した。デモ隊と市民に多数の死者がでた。この事件は「黒い一月事件」と呼ばれ、アゼルバイジャン人からソ連からの離脱の感情が高まった。事件で死亡した人々は殉教者墓地に埋葬されている。多くのアゼルバイジャン人の共産党員が離党した。日本ではゴルバチョフをソ連の改革を進めた政治家としと肯定的にみる人が多かいが、アゼルバイジャンでは同胞を殺害したソ連政治家として批判された。
2 黒い一月事件の切手
「黒い一月事件」の混乱を収拾するため、ムッタリボフが指導者に就任し、脱ソ連化の方向をすすめた。三月五日、ゴルバチョフがソ連大統領に就任すると、五月ムッタリボフも初代大統領に就任した。ムッタリボフはソ連内務省の協力を得てギャンジャ市周辺の村落からアルメニア人を一掃した。これ以後、紛争はアルメニアとアゼルバイジャンの国家間の紛争へと拡大していった。九一年二月五日、国家名がアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国からソビエト連邦内のアゼルバイジャン共和国へ変更された。ムッタリボフはソ連存続に賛成であったが、モスクワでの八月クーデター事件後に八月三〇日に独立宣言し、九月に共産党を解党した。ナゴルノ・カラバフは、アルメニア系住民がナゴルノ・カラバフ共和国を宣言した。アゼルバイジャン国会はナゴルノ・カラバフ自治州の自治を取り消した。
ソ連末期、ゴルバチョフによるペレストロイカは、それまで封印されて押さえつけられていた民族問題が噴出し、ソビエト連邦の各地で民族衝突が勃発することとなった。コーカサス地域でもアゼルバイジャン国内のナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア系住民が帰属先の変更を求める民族対立が次第にエスカレートして民族戦争へと拡大した。

三.独立以前・以後のヘイダル・アリエフの活躍と大統領就任
一九九一年のソ連消滅とアゼルバイジャン独立後の政治経済の状況から、彼の登場がアゼルバイジャンの繁栄に導かれるのを理解するため、彼の来歴について明らかにする。
ヘイダル・アリエフは、一九二三年にアゼルバイジャンの飛び地でトルコ・イラン・アルメニアと国境を接するナフチェヴァン自治共和国で父が鉄道員であった家庭に誕生した。四四年、国立アゼルバイジャン大学歴史学部を卒業し、卒業後にアゼルバイジャン国家安全保障局(NKGB、四五年にKGBと改称)に入局した。六七年、アゼルバイジャンKGB議長就任。六九年、アゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記に選出された。第一書記を十三年間続けられた背景にはソ連共産党書記長ブレジネフの信頼が篤かった。八五年、アンドロポフ・ソ連共産党書記長の引きでモスクワでのソ連中央の政界入りし、閣僚会議第一副議長(第一副首相)に就任した。ムスリムとして最初のソ連共産党最高幹部会政治局員となった。しかしアリエフは八五年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフの政治路線と対立した。
3 ソ連時代のアリエフ
一九九〇年、アリエフは共産党を離党してバクー経由で故郷のナヒチェヴァンに戻って隠棲していた。九〇年アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国人民議会議員とナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義人民議会議員に選ばれた。九一年にアゼルバイジャンが独立しても内政外政とも安定しない状態が続いていた。故郷のナヒチェヴァンに隠棲していたアリエフは支持者たちから「救国のために立ち上がってほしい」と要請を受けた。九一年九月、アリエフはナヒチェヴァン自治共和国最高議会議長に選出された。ソ連から独立を宣言したアゼルバイジャン共和国最高会議副議長にも就任し、九三年まで副議長の職にあった。九二年十一月、新アゼルバイジャン党がナヒチェヴァンで結党されとき、アリエフが党首に選出された。ナゴルノ・カラバフ紛争では、九二年四月にアルメニア軍がナゴルノ・カラバフとアルメニアの間にあるケルバジャル郡を占領してアゼルバイジャン内の占領地を拡大した。アゼルバイジャン国土の二〇%がアルメニアに占領された。紛争の敗北から前線指揮官ヒュセイノフ大佐が率いる反乱軍がバクーに進撃した。政府軍や民兵はバクーを防衛しようとしたが、アゼルバイジャン政界は混乱を極めた。九三年六月、エルチベイ大統領はアリエフに後事を託して故郷のナヒチェヴァンに逃亡した。
一九九三年六月十五日、ヘイダル・アリエフは最高会議議長に選ばれ、九日後の六月二十四日、下院によって大統領に選出された。前任者アブルファズ・エルチベイを破って大統領に就任した。前任者のエルチベイは非常に人気のある社会学者であったが、ナゴルノ・カラバフ紛争を解決できず大量の難民の発生、経済的な混乱と不安定から国を救えなかったのがエルチベイの敗因であった。
アリエフ大統領は一九九四年五月にアルメニアと停戦協定を結び、ナゴルノ・カラバフ戦争を停戦させた。政治的安定の確保を重要視したので、人民戦線などの反対派を抑え込みなながら慎重に行動し、アゼルバイジャンの政治的な安定を実現した。周辺の国では、内政の混乱がロシア介入の理由となってきた。アリエフの政治的な手腕がアゼルバイジャン国内を安定させ、ロシア介入を正当化する口実を与えなかった。
アゼルバイジャン経済が発展するため西側諸国からの直接投資や技術を導入した。石油・ガスの採掘・精製の施設や工場の更新や新設に積極的に動き、輸送パイプラインの建設を進めた。さらに欧米諸国との経済関係を強めるため、グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバの頭文字をとって「GUAM」と呼ばれる地域国家共同体を組織し、域内の協力関係の強化を図った。これをロシアは快く思っていなかったが、欧米からは歓迎されていた。日本の外務省も「GUAM」を地域の安定にとり重要と考え各国関係者を日本に招聘した。アリエフ大統領はロシアに対して、西側接近といつギリギリの瀬戸際戦略をした。プーチン大統領にとっては不愉快であったが、老練なアリエフ大統領であったからこそ、ロシアと表立って対立せずに、これらの政策を実行できた。
アリエフ大統領は、アゼルバイジャン国内の安定を図り、ウクライナなどのようなオレンジ革命のような革命や騒動を飛び火させなかった。アリエフはKGB将官であった。プーチン大統領がKGB東独勤務時の階級は少佐であったので、アリエフははるかに上位の階級にあった。ソ連政治局の第一副首相の経歴があり、ソ連の内部事情は熟知していたから、ロシア人の政治を深く理解できた。アリエフ大統領は、アゼルバイジャンを愛した民族主義者であった。このような実力と経験のあるリーダーがいなければ、ロシアと友好関係を維持しながら、コーカス地域でバランスのある政治はできなかった。

四.カスピ海から地中へのBTC国際パイプラインの建設
4 パイプラインの写真
アリエフ大統領はカスピ海産石油をロシア経由以外でのパイプラインで輸出するルート建設プランを実現した。アリエフ大統領はロシアと敵対するような外交はしなかったが、ソ連時代の政治を熟知していた経験から、アゼルバイジャンのエネルギーの命運をロシアに握られることを避けたかった。リスク回避からBTC(バクー・トビリシ・ジェイハン)パイプライン建設を推進し、日本を含む西側諸国にも建設に参加させた。ソ連元共産党の古い思考の政治家ではなく、アゼルバイジャンの国益を第一とする愛国的な民族政治家であった。BTC国際パイプラインは、彼の存命中には完成しなかったが、息子のイルハン・アリエフ大統領のときに完成した。日本も伊藤忠、帝石国際石油開発(INPEX)が国際パイプライン会社の株主となり利権をもっている。二〇〇五年五月十日にバクーから初めて送油された原油が、陸路1,770キロメートルを経て〇六年五月二十八日にトルコの地中海沿岸ジェイハン石油基地に到達した。これはロシアからのドルジバ(友好)パイプラインに次いで、距離では世界第二位でロシアを経由しない石油パイプラインである。いまではアゼルバイジャンからの石油だけではなく、カザフスタンからの石油も送油している。国際パイプラインを通じて輸出される石油収入がアゼルバイジャンを産油国としての繁栄につながっている。BTC国際パイプラインを実現したのがハイダル・アリエフであり、彼の功績は大きい。

五.アゼルバイジャンの国父ヘイダル・アリエフ
5 ヘイダル・アリエフ大統領
ヘイダル・アリエフの健康状態は一九九九年頃から悪化し、同年アメリカ合衆国で最初の心臓バイパス手術を受けた。さらに前立腺とヘルニアの手術も受けた。二〇〇三年春にはテレビで生中継された演説の最中に倒れ、八月六日、再びアメリカの病院に入院して心不全と腎臓病の治療を受けた。治療中ながらも十月に予定される大統領選挙に候補者登録を行ったが、八月に首相に就任した長男イルハム・アリエフも候補者登録を行った。結局、十月三日にアリエフは治療滞在中のアメリカで声明を発表してイルハムを後継者と宣言し、与党の単独候補に指名した。その結果、十月十五日に行われた大統領選挙ではイルハム・アリエフが圧勝し、旧ソ連諸国で初めてとなる大統領職の世襲が実現した。ヘイダル・アリエフは大統領職を去ってから二ヵ月後の〇三年十二月十三日、アメリカ・オハイオ州のクリーブランドの病院で死去した。
トルコ共和国の初代大統領で共和国建国の功績者であったムスタファ・ケマル将軍がトルコ大国民議会から「アタチュルク(父のようなトルコ人、偉大なトルコ人)」という姓を存命中に与えられている。アゼルバイジャン人はトルコ共和国建国の功績者ケマル・アタチュルクを知っている。アゼルバイジャンでもトルコと同じように共和国繁栄の功績者である故ヘイダル・アリエフを国父という敬称でたたえている。
ヘイダル・アリエフは、大統領として政権にあった十年間アゼルバイジャンの国民を強力に指導し、外資の積極的な導入によって、ナゴルノ・カラバフ紛争(一九九四年停戦合意)によって壊滅状態にあったアゼルバイジャン経済の立て直しに図った。一九九三年十月と一九九八年十月の二回の大統領選挙において圧勝を収めて二期の任期を務めた。外資の導入による石油産業の再活性化がアゼルバイジャンに富をもたらし繁栄させた。
6 ヘイダル・アリエフ・センター
さまざまな功績から、ヘイダル・アリエフはカリスマ的なリーダーとして、今のアゼルバイジャンでは「国父」と称えられ、公共の建物や施設、公園などに「ヘイダル・アリエフ」の名前が付いたポスターや肖像画が掲げられている。ヘイダル・アリエフ文化センターは、アリエフの名前を冠し、イギリスの建築家ザハ・ハディッドが設計して複合施設は首都バクーで注目されている。アゼルバイジャン国際空港はヘイダル・アリエフ国際空港と命名されている。

六.ヘイダル・アリエフ大統領訪日と日本・アゼルバイジャン両国関係
6 天皇陛下との写真
一九九八年二月、ヘイダル・アリエフ大統領はアゼルバイジャン国家元首の初めて訪日した。アリエフ大統領と橋本首相との間で、「日本国とアゼルバイジャン共和国との間の友好とパートナーシップに関する共同声明」に署名した。日本・アゼルバイジャン両国の友好関係発展にとり公式な関係の大きな一歩となった。具体的には、共同声明に基づき一九九八年に円借款「セヴェルナヤ・ガス火力複合発電所計画」(206.99億円,アゼルバイジャンで最初の円借款事業)、一九九九年に円借款「セヴェルナヤ・ガス火力複合発電所計画(第2期)」(183.32億円)がアゼルバイジャンに対して実施された。
一九九八年の訪日でアリエフ大統領は天皇(現上皇)陛下との謁見で次のように発言している。
「…私が国を率いていた一九七〇年代に、日本の会社「東芝」が、バクーでエアーコンディショナーの工場建設に直接関与したことを、嬉しく思い出します。我が国は、世界で偉大な権威を獲得した日本企業と今後の関係を強化することを、極めて重視しています。カスピ海のアゼルバイジャン領海における鉱床の共同開発契約では、「伊藤忠商事」が現在、大きな割合を占めていることを強調したいと思います。多くの日本企業が、すべての分野において、アゼルバイジャンとの関係拡大に関心を持っていることを、高く評価しております。…」
アリエフ大統領訪日は、日本・アゼルバイジャン関係が経済面での大規模のスタートとなった。訪日の成果として、日本・アゼルバイジャン経済合同委員会が設立された。一九九八年十二月、日本・アゼルバイジャン経済合同委員会は、日本とアゼルバイジャン共和国との間の貿易・経済関係の促進を目的として設立された。日本側の主な関係会社は、双日、伊藤忠商事、丸紅、三井物産、三菱商事、国際石油開発帝石が参加し、アゼルバイジャン側経済委員会との合同会議が両国で開催されてきた。合同会議ではアゼルバイジャン政府要人や政府関係者と交流を促進し相互理解を深めてきた。アゼルバイジャンの経済情勢についての最新情報が得られ、両国間の貿易、投資等の課題について積極的な意見交換が経済委員会で行われてきた。

七.おわりに
7 日本・アゼルバイジャン切手
ヘイダル・アリエフが開いた日本・アゼルバイジャン二国間関係は、彼の息子イルハン・アリエフ大統領になって一層拡大し発展している。アゼルバイジャンには伊藤忠商事、国際石油開発帝石(INPEX)などが進出し、ACG油田に12.96%(国際石油開発帝石9.31%、伊藤忠3.65%)、BTCパイプラインに5.9%(伊藤忠商事3.4%、国際石油開発帝石2.5%)の権益を保有している。日本企業がカスピ海の油田開発と原油輸送に積極的に関与している。日本は二〇一七年までにアゼルバイジャンに対し、一一〇〇億円以上の経済援助を実施し、二〇一三年から一七年まで五年連続で最大のアゼルバイジャン援助国となるなど経済開発や発展に貢献してきた。
アゼルバイジャンのシルクウェイ航空は、首都バクーを拠点とする貨物航空会社である。同航空会社は二〇二一年二月から成田空港・ヘイダル・アリエフ国際空港間で貨物便を就航させ貨物の航空輸送をしている。陸路のシルクロードが歴史的に日本と大陸の交流に重要な役割を果たしてきた。二十一世紀は会社名となっているシルクウェイ(絹の道)がヘイダル・アリエフ国際空港(バクー)を中継して日本と諸外国との物資輸送に貢献している。アゼルバイジャン国営石油基金が対日投資として、東京で不動産投資(五〇〇億円)をした。このようにアゼルバイジャン側から日本への経済的な接近も起きている。
この三〇年間の日本・アゼルバイジャン関係は、カスピ海の石油・天然エネルギーの開発が中心となっているが、その他の分野でも多様化し着実に発展している。両国関係は日本側からの一方的な関係からアゼルバイジャンからのアプローチもある双方向の関係に向かいつつある。
8 シルクウェイ航空 小松空港

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