独立から30年のアゼルバイジャンの歩み

東京, 12月04日, /AJMEDIA/

慶應義塾大学 総合政策学部 教授
廣瀬陽子

はじめに

 今年2021年は、アゼルバイジャンがソ連から独立し、アゼルバイジャン共和国として歩み始めて30年を迎える年である。同国がその名を冠して独立したのは、1918年から1920年にかけてのアゼルバイジャン民主共和国が初めてであり、独立国家としての経験がほぼないままに、ソ連に編入された。そのため、ソ連解体に伴う独立は、同国にとって、主権国家としての最初の歩みだったと言っても過言ではないほど、歴史的に大きな出来事であった。

この30年、アゼルバイジャンは激動の時代を走り抜けてきた。同国のソ連解体後の30年は、戦争に始まり、戦争に終わったと言って良い。すなわち、独立当初はソ連解体の混乱に加え、ソ連末期から続いていた第1次ナゴルノ・カラバフ紛争の戦闘激化と事実上の敗北(停戦合意は1994年に成立)で厳しい国家建設を強いられた。だが、同国は石油・天然ガスからの収入で経済的に成功を収め、近代国家としての国家建設を急速に進め、国際的な影響力も強めていった。そして、独立30年を目前に控えた2020年9月27日には第2次ナゴルノ・カラバフ戦争(紛争と表記されることが多いが、第一次紛争が、ソ連の内戦からアゼルバイジャン、アルメニア両国の戦争に発展したという経緯があった一方、2020年のものは完全に国家間の戦闘であったため、本稿では戦争と表記する)が再燃したが、アゼルバイジャンは勝利を収め、戦後復興に注力しながら、新たな展開を迎えている。

安定政権

独立直後のアゼルバイジャンの政治は、突然の独立と紛争により混乱した。独立直後には、共産党出身のアヤズ・ムタリボフが初代大統領に就任するも9ヶ月も持たず(しかも、その間約2ヶ月とその後約1ヶ月は大統領代行が就任)、アゼルバイジャン人民戦線を率いたアブルファズ・エルチベイが第2代大統領に就任した。エルチベイは民主化を進めたが、親トルコ・反ロシア政策を採ったが故に、ロシアの反発を買うことになった。結果、ロシアのナゴルノ・カラバフ紛争におけるアルメニア支援を決定的にした他、最後はロシアが支援するクーデターで失脚し、エルチベイ政権も1年強で終焉した。

そして1993年に第3代大統領に就任したのが、ソ連時代にアゼルバイジャン第一書記やソ連閣僚会議第一副議長などを務めていたヘイダル・アリエフであった。ソ連時代に、ムスリムとしては初となるソ連共産党中央委員会政治局員となるなど、クレムリンでも活躍したアリエフは、アゼルバイジャンではカリスマ的存在であり、彼の政治復帰は、国民に大いに歓迎された。

ナゴルノ・カラバフおよび周辺の緩衝地帯を占領されるという結果に終わったとはいえ、1994年にナゴルノ・カラバフ紛争を停戦に導いた後は、戦後復興と国内の統合・発展に尽力し、国内政治に安定をもたらした。この安定は国民に高く評価されることとなった。

また1994年には所謂「世紀の契約」と言われるカスピ海沖のアゼリ・チラグ・グナシリ(ACG)油田に係る生産分与契約を国際コンソーシアム(AIOC)との間で締結し、その後の同国の経済発展の基盤を構築した。

 2003年に、イルハム・アリエフは、大統領選挙に勝利した。2000年代半ば以降の資源輸出による経済の活況の恩恵も受け、安定政権を維持し、アゼルバイジャンの国民が内政・外交をサポートしてきた。

石油・天然ガス〜経済発展の礎

 アゼルバイジャンは古くから上質の石油・天然資源に恵まれ、19世紀には世界の石油産出量の半分がバクー産だったと言われるほどの資源大国である。ソ連が独ソ戦(大祖国戦争)で勝利できたのも、バクーの石油があったからだと言われており、1970年代くらいまでは、ソ連の石油産業の中心地がバクーであった。

そして、ソ連解体後のアゼルバイジャン経済を主に支えてきたのも、石油や天然ガスの輸出だったと言って良い。前述のアゼリ・チラグ・グナシリ(ACG)油田における採掘事業を中心に1日あたり約66万バレルの原油が生産されており、その原油の大半はアゼルバイジャンからジョージア経由でトルコにつながるバクー・トビリシ・ジェイハン(BTC)石油パイプライン(2005年開通)によって輸出されている。また、2006年末に商業生産を開始したカスピ海沖のシャフ=デニス・ガス田の開発により、天然ガスの輸出もバクー・トビリシ・エルズルム(BTE)パイプラインなどで進めるようになった。さらに、トルコを横断するTANAPパイプライン(2018年開業)とトルコからギリシア、アルバニアを経由し、アドリア海の海底を通過しイタリアまで繋がるTAPパイプライン(2020年完成)により、欧州へ天然ガスの輸出路も獲得することになった。

 このような資源輸出により、1990年代末から高い経済成長率を示すようになり、2006年には約35%の高成長を遂げた。その後は石油価格の低迷や世界の景気後退などにより、経済成長は鈍化しているものの、アゼルバイジャンは近年、経済の多角化を強く進めている。特に、農業の発展や産業を振興するための部品等の国産化の努力では目覚ましい結果が出ている。2000年代以降、政府は観光を推進しており、首都・バクーを中心に観光業でも成功を遂げつつあった(ただし、新型コロナウイルス感染症問題で、2020年の観光業は諸外国と同じく、大きな打撃を受けた)。バクーの旧市街をはじめとした世界遺産なども貴重な観光資源となっている。今後は、2020年の戦闘で勝ち取ったナゴルノ・カラバフの一部や周辺地域も観光名所として発展させたい考えだ。

 このように経済面では華々しい成功があった結果、アゼルバイジャンは多額の資金を軍事に注ぎ込み、また首都・バクーは近代的なビルが立ち並ぶ都市に変貌した。その結果が、2020年の第二次ナゴルノ・カラバフ戦争での勝利だと言えるし、バクーは近代都市として、多くの国際試合や国際イベントを招致できる地に発展した。国全体で見れば、まだ多くの問題が残されているとはいえ、今後のさらなる発展が期待される。

外交〜絶妙なバランス外交

 アゼルバイジャンの外交は、中立的立場を維持した絶妙なバランス外交だと言える。

独立後しばらくは、1990年の「黒い一月事件」やナゴルノ・カラバフ紛争におけるロシアのアルメニア支援などがあったために、反ロシア的な傾向が強く、親欧米・反露とされる地域組織GUAM(加盟国のジョージア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドヴァの頭文字をとっている)のメンバーとなり、今もメンバー国であり続けているが、次第に対露配慮を強め、GUAMの中でも完全中立ともいえる状況を維持できるようになっている。そして、ロシアとも欧米諸国とも良好な関係を維持できている。

このようなバランス外交ができるのも、石油・天然ガス収入のおかげであるともいえるが、変わらないのが民族・言語的に近い兄弟国トルコとの緊密な関係と、隣国アルメニアとの敵対関係である。また、隣国のジョージアとは、トルコに続く石油・天然ガスのパイプラインや道路、鉄道の経由地ということもあり、強い協力関係にある。だが、南の隣国イランとは、イランに多く住むアゼルバイジャン人問題やカスピ海の利権問題などで若干微妙な関係にある(ただし、第二次ナゴルノ・カラバフ戦争では、イランはアゼルバイジャンを支持するスタンスを取った)。

上述の通り、欧米諸国とも比較的良い関係を築いているが、米国、フランスなどがアルメニア人ディアスポラの影響もあって親アルメニア的立場をとっていることなど、緊張材料も少なくない。

だが、アゼルバイジャンの最大の外交問題はナゴルノ・カラバフ問題をめぐるアルメニアとの関係であると言える。

ナゴルノ・カラバフ問題〜最大の課題

 ナゴルノ・カラバフ紛争はアゼルバイジャン・アルメニア両民族間の紛争であるが、両国の政治経済、外交に極めて重要な影響を与えてきたものだと言える。ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン国内にありながら、アルメニア系住民が多い地で、ソ連時代には自治が与えられた自治州であった (ソ連解体直前の1991 年 11 月に自治は廃止)が、その帰属問題を巡り、ソ連末期に両民族間の紛争が起きた。ソ連解体後は、両国間の戦争に発展したが、ロシアがアルメニアを支援したこともあり、アルメニアが勝利する形で、1994年にロシアの仲介によって停戦が合意された。

 だが、アルメニア系住民は、アルツァフ(ナゴルノ・カラバフ)共和国を自称し(国家承認を1カ国からも得られていない「未承認国家」であった)、ナゴルノ・カラバフのみならずその周辺も緩衝地帯として占拠し続け、それはアゼルバイジャン領の約20%を占めた。和平交渉はOSCEミンスク・グループ(共同議長国は米仏露)が担ったが、同グループの提案する和平案がアルメニアに有利なものばかりだったということもあり、和平交渉が不調に終わる一方、停戦は頻繁に破られ、毎年、民間人も含む多くの死傷者が出ていた。

 2016年4月には比較的大きな戦闘となったいわゆる「4日間戦争」が起き、アゼルバイジャンが若干の領土を奪還したものの、また情勢は膠着していた。

そして、2018年にアルメニアの政変でニコル・パシニャンが首相に就任したことは、第2次ナゴルノ・カラバフ戦争勃発の序曲となったといえよう。パシニャンのナゴルノ・カラバフ問題に対する強硬姿勢や発言は、アゼルバイジャンを大いに刺激することとなった。

 こうして、2020年7月にアゼルバイジャン北西部のトブズ周辺の国境地帯でアゼルバイジャン・アルメニア両国の軍事衝突が起き、そして9月にカラバフ地方とその周辺で両国の激しい戦闘が再燃したのだった。

 第2次ナゴルノ・カラバフ戦争では、ロシアがかつて支援し、集団安全保障条約機構メンバーでもあるアルメニアを支援せず、完全なる中立を保った一方、トルコが全面的にアゼルバイジャンを支援するなど、戦闘をめぐる国際関係図が大きく変わった。

 また、戦闘では、多くの近代兵器を準備していたアゼルバイジャンが、情報戦やサイバー戦なども絡めた「現代戦」を優位に展開した。特に、トルコの軍事支援とアドバイスのもと、トルコやイスラエルの無人軍用機(UAV)を活用し、NATO戦術の研究によって効果的に戦闘を進め、陸軍や特殊部隊が最後のとどめを指す形で、次々と被占領地を奪還し、アゼルバイジャン人にとって文化・歴史的に最も重要であり、かつ戦略的意義が高いシュシャを陥落させ、アルメニアを圧倒した。

 そして、ロシアの仲介で11月10日に停戦が合意され、アルメニアは州都ステパナケルトを含むナゴルノ・カラバフの60%をなんとか死守したものの、それ以外の地はアゼルバイジャンに返還することになったのだった。

また、緩衝地帯を失ったことで、カラバフがアルメニアから見て飛地となったことから、アゼルバイジャン領を経由するアルメニアとナゴルノ・カラバフを結ぶ道路が新設されることになった一方、アゼルバイジャンは飛地・ナヒチェヴァンと本国を結ぶ回廊をアルメニア領に新設できることになった。この回廊の意味は大変大きく、ソ連時代にはあった当地の鉄道が再開できれば地域の物流の活性化に貢献することは間違いない。また、ナヒチェヴァンに接するトルコが、アゼルバイジャン本国のみならず、カスピ海経由で中央アジアに陸路で繋がり、アゼルバイジャンも含まれるトゥルク系民族の関係が深まる素地ができたことの意味も大きい。

 他方、アルメニアが死守したナゴルノ・カラバフ地域ではロシア軍が、またナヒチェヴァンとアゼルバイジャン本国を結ぶ回廊ではロシアのFSB(ロシア連邦保安庁)が平和維持活動を行うことになった。この一連の流れにより、ロシアは本来外国軍の設置を国内法で認めていないアゼルバイジャンに軍を駐留させることができるようになった他、ナゴルノ・カラバフ問題の鍵を一手に握ることとなった。今後のナゴルノ・カラバフ和平では、ロシアが単独で主導的役割を果たすようになると思われる。

 そのため、第2次ナゴルノ・カラバフ戦争の勝利者はアゼルバイジャン、並びにロシアやトルコであると言えるが、ナゴルノ・カラバフの地位問題の議論は先送りされており、問題の火種は残ったままである。また、地雷除去やインフラ整備などを含む紛争地の復興の問題や、軍の立て直し、さらに、ナゴルノ・カラバフおよび周辺への国内避難民の帰還問題など、勝利の歓喜に沸いたアゼルバイジャンが抱える問題は山積している。

結び
 以上、述べてきたように、アゼルバイジャンの独立後の30年は、同国にとって激動の時代であった。現在の同国の課題は、第2次ナゴルノ・カラバフ戦争からの復興、復興後の国内避難民の帰還、そして経済の多角化と安定した政治経済の維持であろう。

同国が抱える問題は少なくなく、特に戦後復興は喫緊の課題である。国民の戦勝の高揚感はいつまでも続くものではなく、新型コロナウイルス感染症問題もまだ根深い中、様々な問題を解決しながらの国家運営、さらなる発展は容易ではない。

 だが、アゼルバイジャンは若い国であり、人口も順調に増加してきた。そして、優秀な若者が育っており、発展のリソースはふんだんにあるといって良い。同国の更なる発展に期待しつつ、日本との関係がさらに深化することを祈るばかりである。

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