アゼルバイジャン共和国の殉教者の日

東京, 1月20日, /AJMEDIA/

“黒いー月 意味は ブラック・ジャニアリ、または、ガラ・ヤンワル”の犠牲者の追悼
アゼルバイジャンでは毎年1月20日は殉教者の日と定められています。1990年1月20日にソビエトによる虐殺の被害者に捧げる正式な追悼の日になっています。これは国の歴史の中で「ブラック・ジャニアリ=黒いー月」と呼ばれています。
ソビエト連邦建国以来ソビエト連邦政府が連邦内の国々に対して偏った政策を取り、その結果アゼルバイジャンの隣接の国(アルメニア=アルメネスタン)がアゼルバイジャン領カラバフを併合することを決定しました(現在も占領されている)。この事に対してアゼルバイジャン国民はソビエト中央政府に怒りを向けました。国民前線ができ、平和的な会合を開き、独立に向かい始めました。ソビエト政府がこういった独立に危機感を感じ、ソビエト連邦特別会議を招集しました。最高ソビエト連邦大統領ゴルバチョフ書記長がバクー(アゼルバイジャンの首都)への侵攻を命令し、1990年1月20日午前0時20分にアゼルバイジャン内外からソ連軍2万6千人の兵隊と特殊部隊をバクーに送り込みました。
ソビエトまたロシアの計画の不可欠な部分はアゼルバイジャンの人々を恐怖に落とし、アゼルバイジャン国の領土および主権への目覚めを破壊することでした。当時、ミハイル・ゴルバチョフ(犯罪者)が率いるソビエト帝国の指導部は、巧みにバクー在住の「アルメニアのカード」を使用しました。
この侵攻に対してアゼルバイジャン国民が抗議し始めました。一般市民が国民前線会議に参加し、ソビエト軍を相手に武器を持たずに戦いました。
このソビエトによるバクー流血事件の主な目的の1つは自由と主権また自立の欲求を主張するアゼルバイジャンの人民を軍事力やタンクによって奪うことでした。
ソビエト指導部の犯罪的な政策の本質は悲劇や虐殺された人々によっても暴かれています。 1990年1月にバクーとその周囲でソビエト軍による虐殺によって147人が死亡、744人が負傷しました。 死者の中には5カ国(ソビエト連邦所属)の代表者らもおり、20人以上の女性、子供、病院の救急車内の医師、病人そして医者が殺されました。
これによって連邦内で抑圧されていた国民の独立気運が高まりました。その後国民前線によってアゼルバイジャンが独立を果たしました。
当時、国民指導者の欠如はこの悲劇の深さを表しています。アゼルバイジャン国の力強い指導者であるヘイダーアリエヴ(Heydar Aliyev)が、あの悲劇のとき、この国の指導者でいなかったという事実は現在理解されています。これも、その日の最大の真実と見なされています。
偉大な指導者ヘイダーアリエヴ(Heydar Aliyev)が帰国後、この問題を議題に取り上げ、1月20日の出来事を国民の喪の日に宣言しました。 
イルハムアリエヴ(Ilham Aliyev)大統領が、1月20日の悲劇の殉教者、障害者とその家族の問題は国レベルで解決することの最も重要な課題の1つであると明言しています。 これのため、わが国では大きな対策が講じられています。 殉教者の家族と障害者の社会保障はさらに強化されています。
国家のために路上で犠牲になった人々は、私たちの国の意志の栄光とそのクロニクルになったと伝えられています。 殉教者が埋葬されている路地(国会前)は、私たちの自由、自立、国民の団結の象徴として、私たちの将来への誇りの源となるでしょう。
この日(1月20日)はアゼルバイジャンの殉教者の日と制定されています。この日犠牲者らに尊敬を表すために犠牲者が埋葬された国会前公園に建てられた殉教者記念碑に花を捧げます。今日(1月20日)はその日に当たります。国に命を捧げた人々に敬意を表すともにご冥福を祈ります。

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