東京, 10月1日, /AJMEDIA/
石破茂首相は歯に衣(きぬ)着せぬ率直な物言いで知られる。かつて師事した渡辺美智雄元副総理が口にした「勇気と真心を持って真実を語る」がモットーだ。しかし、その姿勢は国民の期待を集める一方、自民党議員の多くを遠ざけてきた。5度目の挑戦で首相の座を射止めた今、真価が問われる。
石破氏は鳥取県知事や自治相を歴任した二朗氏の長男として生まれた。「茂」は吉田茂元首相にちなむ。慶応高校入学と同時に鳥取県から上京し、慶大法学部に進学。卒業後は三井銀行(当時)に入行した。当初は政治家になる気はなかったが、二朗氏の死後、田中角栄元首相から促され、政界入りを決断した。旧田中派の職員として政治を学び、1986年衆院選で29歳で初当選を果たした。
88年にリクルート事件が発覚すると、同僚議員らと研究会を立ち上げるなど政治改革に取り組んだ。93年には選挙制度改革を巡って党執行部と対立し、宮沢内閣不信任決議案に賛成。続く衆院選で公認を得られず、無所属で戦った経験も持つ。その後、自民を離党し、新生党に参加。新進党旗揚げにも加わったが、97年に復党した。
小泉内閣で防衛庁長官として初入閣し、安全保障分野の論客として党内で地歩を固めた。
総裁選に初挑戦したのは2008年だ。この時は最下位に沈んだが、12年の総裁選では党員票の55%を獲得して首位に立ち、総裁の椅子に手が届きかかった。しかし、議員票のみの決選投票で安倍晋三元首相に逆転負けを喫し、以降は18年、20年と敗北が続いた。21年は出馬断念に追い込まれた。
連敗の背景にあったとされるのは身内の批判もいとわない首相の姿勢だ。麻生政権時代には現職閣僚でありながら麻生太郎元首相に退陣を迫り、「後ろから鉄砲を撃つ」と批判を招いた。
もっとも、「最後の戦い」と位置付けた今回は100人超の議員に自ら電話をかけ、麻生氏に「ご指導を賜りたい」と頭を下げた。こうした姿勢に首相の変化を感じ取る向きもある。
戦闘機や軍艦のプラモデル作成が趣味。70年代のアイドルグループ「キャンディーズ」や鉄道の大ファンだ。特技はカレー作りで、「カレーは飲み物」と言い切る。