東京, 03月06日 /AJMEDIA/
日本人として2人目のノーベル文学賞作家で、核兵器廃絶や平和についての発信も続けた大江健三郎さんが、被爆体験などの資料を集めて保存していくため、原爆投下から20年となった1965年に当時の知識人たちに協力を呼びかけた文書が残されていることが分かりました。
去年3月に亡くなった大江健三郎さんは、1965年に広島での取材をもとに被爆者や治療にあたる医師の姿を描いた「ヒロシマ・ノート」を刊行し、その後も文学者の立場から核兵器の廃絶や平和について発信を続けました。
今回見つかった文書は、大江さんらの呼びかけで発足した「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」が、これまでに収集した資料の中から発見したものです。
文書は、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が、原爆投下から20年がたった1965年に被爆者の体験記などの資料収集を始めるのにあわせて、ほかの作家や学者らと連名で当時の知識人に協力を呼びかけた際に書かれたものです。
この中で当時30歳だった大江さんは、被爆者が自身の被爆体験を話したり書き残したりすることについて、「最もストイックな自己証明、あるいは自己救済の意志による事業だ」などとつづっています。
そして「ひとりの知識人が自分自身と人類の運命について考えようとすれば二十年前に現実に原爆を体験した人々について思いださざるをえないはずだ」としたうえで、日本被団協の事業への協力を呼びかけています。
大江健三郎さんと被爆者運動の関わり
大江健三郎さんは、執筆活動や発言を通じて核兵器の廃絶を訴え続けるとともに被爆者運動にも積極的に関わってきました。
1963年には被爆地・広島を訪れ、現地で取材した被爆者や治療にあたる医師の姿を描いたルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」を執筆し、その後も作品の中で反核への思いを示してきました。
さらに日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の集会に参加したり、被爆者の思いに寄り添った文章を寄稿したりなど執筆活動や発言を通じて被爆者たちの運動を後押ししてきました。
大江さんらが連名で結成を呼びかけた日本被団協の「協力委員会」は作家や文化人などに参加を求めていて、呼びかけ人には大江さんのほかに作家の井上光晴や開高健、編集者の吉野源三郎や、当時の広島市長を務めていた浜井信三などの名前が記されています。
また、日本被団協の資料には「協力委員会」の役割として各界への協力の呼びかけや被団協への援助と助言などを行うことなどが記されていて、名簿には志賀直哉や城山三郎などの作家のほか、映画監督の大島渚や劇作家の寺山修司、婦人参政権運動で知られる市川房枝など当時の著名人を中心におよそ300人が含まれていました。
また2011年にも大江さんが呼びかけ人の1人となった「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」が発足し、被爆者の手記や原爆被害に関する調査結果などおよそ2万点の資料が収集されています。
「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の栗原淑江さんは大江さんが知識人に協力を呼びかけた文書について「作家として活躍される一方、節目節目で文章を寄せてくれたり活動に関わってくれたりなど時間をかけて被爆者に協力してこられた大江さんが、早くから被爆者の記録を残して生かしていくという立場を示しそれを生涯貫かれたことを示す資料だと思う」話していました。
専門家「力強い後押しになったのでは」
被爆者運動に詳しい昭和女子大学の松田忍教授は、今回確認された大江健三郎さんの文書について「文書が書かれた1965年は、生き残ったことや助けられなかったことへの罪の意識などで経験を語れなかった被爆者たちが少しずつ語り始めた時期で、『それは大事なことだ』と知識人・小説家の立場で勇気づけようと訴えた手紙だ。人間を極限の状況に追い込む原爆の力そのものが悪なのだと被爆者が認識していく過程で力強い後押しになったのではないか」と話していました。
また、当時は旧ソビエトの核実験の問題などをめぐって原水禁運動が分裂し、日本被団協も分裂の危機に直面していた時期だったことに言及したうえで、「いろいろな政治的な立場はあるにせよ、被爆者が一枚岩となってやっていくためにはあの日のキノコ雲の下を生き抜き、その後も苦しみながら生きてきた経験に立ち返るべきだという強いメッセージになっているのではないか。だからこそ大江さんが被爆者の手記の内容やそれを被爆者自身がストイックに語ることは、それぞれ大事だと考えていたことが文書からもよく分かる」と指摘しました。
そして大江さんが晩年まで被爆者の資料を収集する必要性を訴え続けてきたことを踏まえて、「この文書を書いてからその後も大江さんの考えはずっとつながっていて、大事なのは原爆を経験したその日だけでなく、ねじ曲げられてしまったその後の数十年の人生を丸ごと残すことがまた同じような数十年を繰り返さないために必要だということを本当によく理解されていたのだと思う」と話していました。